プロボクシングの元世界ヘビー級王者ムハマド・アリ氏が6月3日、米アリゾナ州フェニックスの病院で亡くなった。74歳だった。「蝶(ちょう)のように舞い、蜂のように刺す」の言葉通り、ヘビー級離れした華麗なフットワークと鋭いジャブを武器に活躍。黒人差別とも闘い続けたスポーツの枠を超えた英雄だった。【構成=首藤正徳】

●「平和と平等の象徴」に8万人大合唱

 1996年7月19日、アトランタの夜空に燃えさかった炎を、私は一生忘れることはないだろう。

 最後まで極秘にされていたアトランタ五輪開会式の聖火最終点火者はムハマド・アリだった。

 当時54歳。10数年前から重いパーキンソン病を患っていた。点火台に姿を現したプロボクシング元世界ヘビー級王者は、歩くことも話すことも不自由で、無表情だった。それでも震える手でトーチを必死に握り締めて、平和の灯火(ともしび)を点火した。

 その瞬間、スタジアムに大歓声の津波が起きた。白人も黒人も、女性も男性も、そして私たち日本人も総立ちだった。

 人種差別の最も根強かった米国の南部アトランタで、アリが「平和と平等の象徴」として復活した瞬間だった。記者席にいた私は、8万人の「アリ、アリ」の大合唱を聞きながら、「ついに時代がアリに追いついたのだ」と感傷的になった。

 アトランタの夜からさかのぼること29年、アリは米国政府にたった1人で、拳を振り上げた。

 1967年、彼はベトナム戦争の徴兵カードを焼き捨ててこう言った。

 「俺は戦争には行かない。なぜ黒人の俺が罪もない有色人種の頭上に爆弾を落とす必要があるんだ」

 米国は65年にベトナム戦争に本格参戦し、67年には最大50万人を超える米兵がベトナムに投入された。当時、50%を超える米国民がベトナム戦争を支持しており、18~26歳の男子に兵役の義務があった。

 この時、アリは24歳。無敗の世界ヘビー級王者で9連続防衛に成功していた。

 徴兵拒否は国家への反逆だった。激怒した米国政府は世界王座とライセンスを取り上げ、ボクシング界からアリを追放して、裁判に訴えた。「愛国心がない」「非国民」と大衆からもバッシングを浴びた。

 だが、アリは信念を曲げなかった。懲役5年の実刑と1万ドル(当時換算で約360万円)の罰金刑が宣告されたが、「反戦」を訴えて、ファイトマネーのすべてをつぎ込んで上訴した。

●ローマ五輪金メダル、川へ投げ捨てて

 ムハマド・アリは1942年1月17日、米国ケンタッキー州ルイビルの貧しい黒人街で生まれた。本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア。12歳の時に街で自転車を盗まれた。駆け込んだ警察署の警官が偶然にもボクシングジムのトレーナーだった。そこでボクシングを始めると、国内大会を次々と制し、18歳で60年ローマ五輪に出場。ライトヘビー級の金メダルを手にした。

 以下は彼の自伝「ザ・グレイテスト」の一部要約である。

 60年秋、地元ルイビルに凱旋(がいせん)した。街をパレードし、市長主催の祝賀会にも参加した。黒人ゆえの理不尽な差別を、この金メダルが変えてくれる。そう確信していた。ある日、首から金メダルを下げて、友人と白人専用のレストランに入った。金メダリストの顔を見た店主が言った。「黒人はお断りだね」。居合わせた白人グループとも乱闘になった。帰り道、クレイはオハイオ川に首から下げていた金メダルを投げ捨てた。

 後にこの出来すぎた逸話の真偽を問われ、本人は口を閉ざしたが、彼の長い闘争人生は、この時期を起点に始まる。

 プロに転向したクレイは20戦目で世界ヘビー級王者ソニー・リストン(米国)にKO勝ちして世界の頂点に立った。

 「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と形容された、華麗なフットワークと一瞬のカウンターは、大男たちの力ずくの殴り合いだったヘビー級のボクシングを根底から変えた。

 王座奪取の翌日、クレイは急進的な黒人イスラム運動組織「ネーション・オブ・イスラム」の一員になることを表明。「カシアス・クレイ」という本名を「白人が付けた奴隷の名前だ」として、「ムハマド・アリ」というイスラム教の名前に改名したことを発表した。人種差別撤廃が一向に進まない、米国社会への宣戦布告だった。その後、圧倒的な強さで防衛を重ねたアリは時代の寵児となる。

 徴兵カードが届いたのは、その絶頂期だった。アリは徴兵拒否の理由をイスラムの聖典コーランの教えに従ったまでだと力説する一方でこうも語っている。「白人が始めた戦争になぜ黒人が行かなきゃいけないんだ」。

 アリの法廷闘争は当初、世論の支持を得ることはできなかった。しかし、ベトナムの戦況が悪化し、長期化するにつれ、全米各地で反戦運動が盛り上がり始めた。黒人兵士の戦死者の激増で、キング牧師ら黒人解放運動の指導者たちも反戦運動に参加。いつしかアリの戦いは「聖戦」として若者たちに支持されるようになった。70年、ついにアリは連邦最高裁で無罪を勝ち取った。

●「キンシャサの奇跡」7年半ぶり王座

 アリは70年にリングに復帰したが、3年7カ月ものブランクの影響は大きかった。71年3月8日、アリに代わって世界ヘビー級王座に君臨していた不敗のジョー・フレージャー(米国)に挑戦したが、15回にダウンを奪われて初めての敗北を喫する。

 アリの時代は終わった。誰もがそう思った。しかし、アリの神話はまだクライマックスを迎えてはいなかった。

 3年後の74年10月30日、アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサで、世界王者ジョージ・フォアマン(米国)に挑戦する。あのフレージャーをわずか2回で粉砕した25歳の王者は、40戦全勝37KOと歴代のヘビー級王者で最高のKO率を誇っていた。32歳の元王者に勝ち目はないとみられていた。

 予想通り、試合は初回からフォアマンがアリに襲いかかった。ロープを背負った元王者が必死のガードで強打に耐える展開が続く。しかし、これは実はアリの作戦だった。フォアマンは次第にスタミナを失い、動きも緩慢になってきた。8回2分すぎだった。ついにアリの右ストレートが火を噴いた。190センチのフォアマンの巨体が回転しながらキャンバスに沈んだ。7年半ぶりのアリの世界王座復帰は、その後、「キンシャサの奇跡」として語りつがれることになる。

 世界王者に返り咲いたアリは、10度の防衛に成功する。78年2月にレオン・スピンクス(米国)に敗れて王座を手放すが、同9月の再戦で奪回して、史上初めてヘビー級王座に3度就くという偉業を成し遂げる。しかし、これがボクサー、ムハマド・アリの最後の偉業となる。

●筋肉硬直伴う「パーキンソン症候群」

 81年、アリは61戦56勝(37KO)5敗の戦績を残して引退する。

 3年後の84年、神経まひと筋肉硬直を伴う難病「パーキンソン症候群」と診断された。主治医は「パンチの後遺症で進行性」と見解を述べた。手足が小刻みに震え、言葉がもつれてうまく話せなくなった。それでも、アリは痛々しい姿をさらしながら人々の前に立ち続け、病魔に侵された第2の人生を平和活動にささげた。

 90年の湾岸戦争ではイラクまで乗り込み、フセイン大統領と会談。10人の米国人捕虜解放に貢献した。そして、聖火の最終点火者を務めた96年のアトランタ五輪で、当時のクリントン大統領から36年前にオハイオ川に投げ捨てたといわれるローマ五輪の金メダルが再交付された。

 その後も平和活動は続く。01年の9・11テロの救済コンサートではイスラム教徒を代表して平和を呼び掛けた。12年のロンドン五輪でも開会式に姿を現した。

 あるインタビューでの彼の言葉が印象に残っている。「人々に貢献すること、それはこの地球に住むための家賃みたいなものだ」。

 16年6月3日、アリは32年に及ぶ闘病生活の末、米国アリゾナ州の病院で息を引き取った。74歳だった。神聖なる魂はついに役目を終え、神に呼ばれたのだ。

●たった1人で壁に立ち向かい突き崩す

 ムハマド・アリとはいったい何者であったのか。

 彼こそ人類が羨望(せんぼう)する「自由の象徴」ではなかったか。現代社会では、どんな人も真に自由に生きることはできない。差別、戦争、そして病…。1人の人間の力ではどうしようもない巨大な壁がある。そんな社会の中で、アリはたった1人で壁に立ち向かい、突き崩し、自由を勝ち取ってきた。ゆえにスポーツの枠を超えた伝説になったのだ。

 20世紀という激動の時代と勇敢に殴り合い、長い戦いの果てに、アリは動作も言葉も不自由になった。しかし、それゆえに、その姿は高貴で威厳に満ちた神のように私には見えた。

 米国のボクシング会場で、アリが登場すると観客が試合そっちのけで総立ちになって、彼に敬愛の視線を集中させるシーンを何度も目にした。まるでアリのいるところだけ神々しい光が降り注いでいるようだった。もしかすると、ムハマド・アリとは神から人類への贈り物だったのではなかったか…。(敬称略)

 ◆ムハマド・アリ 本名・カシアス・マーセラス・クレイJr.。1942年1月17日、米ケンタッキー州生まれ。60年ローマ五輪のライトヘビー級で金メダル。すぐにプロに転向し、64年に22歳で世界ヘビー級チャンピオンに。9回防衛後の67年にベトナム戦争の徴兵拒否を理由にタイトルをはく奪される。71年の復帰戦で敗れるが、74年にジョージ・フォアマンに勝ち、タイトル復帰を果たす。通算成績61戦56勝5敗。