あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。中学校の文化祭の小さなステージから、大舞台へ。第2子出産を機に札幌に移住し、5年目を迎えた女優千堂あきほ(46)は、兵庫・尼崎園田東中在学中に芸能界入りへ背中を押してもらった。多忙な毎日の支えになったのは、3年時の担任教諭からもらった言葉だった。女優として、母として忙しい今も、大切にしている。

 美術の阿部正典先生(64)には、元気がないとすぐに職員室に呼ばれて「笑顔の方が良い」とか言われて。当時は少しやんちゃで反抗心もあったので、呼び出されるのがうっとおしいなと思っていた。ハンサムな感じで生徒からはすてきと言われ、人気のある先生だったけど、私はあまり好きな先生ではなかったんですよね。

 3年の文化祭でクラス演劇をする時に役を立候補で決めることになって。立候補が先生のこだわりだったんでしょうね。みんな恥ずかしいし、くだらないって感じでなかなか決まらなかった。その間なんとなくずっと先生と目が合っている気がして。1つの役が決まらなくて、思い込みかもしれないけど、先生は私にやらせようとしてる気がした。早く帰りたいから手を挙げたら、「はい決まり」って。最悪~って感じでした。

 劇は社長秘書の役だったかな。コメディーで舞台でずっこけたり、ボケたり。練習して、本番を迎えたらすごいウケたんですよ。あいつおもしろいなってなって。それで先生に新しく始まる演劇科のある県立の宝塚北高校を受けてみないかと言われた。何を言っているんだろうと思った。私は普通の高校に行って短大に行って幼稚園の先生になりたいと思っていた。けどあれよあれよという間に受かってしまい、行くことになってしまった。

 芸能界の荒波にもまれるなか、阿部先生が卒業アルバムに書いてくれた「泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生」という言葉をふと思い出した。

 デビューして事務所が作り上げたイメージになりきれない自分がいてすごくしんどかった。関西弁は使っちゃダメとか、阪神ファンって言っちゃダメとかいろいろなことを規制されたなかで仕事をこなす日々。毎日睡眠2時間、休みも月に1回というのが続いた。当時はおっさんくさい言葉と思ったけど、そういえば先生はいつも私を呼び出して笑っていた方が良いと言ってくれていた。自分の教訓になった。

 ちっぽけなクラス劇からテレビで大きな役をやらせてもらえるようになったのも先生のおかげ。今は札幌に来て5年目。主人が札幌出身で、義母が1人暮らしということで2人目の子がおなかにいる時に来た。自分らしく生活できるこの大地で、良い意味で第2の人生がスタートしています。お仕事をしながら子育て。今の自分が自分らしくて好き。笑って暮らしています。【取材・構成=保坂果那】

 阿部氏 陸上部で肌が焼けて真っ黒だった。学級委員長をやるしっかり者。当時校内暴力が問題になっていて、やんちゃな子が授業などで立っていると「座って」と言って座らせていた。劇ではスーツを着てびしっと決めて。おもしろい劇を真面目に演じてくれて、そういう才能もあったんだと驚いた。阪神・淡路大震災の時、東京から1番に電話をしてくれた。心配してくれてうれしかった。しっかり者で優しい。劇の役も、だから手を挙げてくれたんでしょうね。

 ◆千堂(せんどう)あきほ 1969年(昭44)4月5日、兵庫・尼崎市出身。90年に歌手デビュー。その後女優として「東京ラブストーリー」(91年)「振り返れば奴がいる」(93年)などに出演し、クイズ番組「マジカル頭脳パワー!!」のレギュラー解答者などでも活躍した。UHB「みんなのテレビ」(月~金曜、午後3時50分)とNHKラジオ第1「かんさい土曜ほっとタイム」(土曜、午後1時5分)出演中。