19日死去した桂米朝さんは、上方落語のリーダーとして走り続け、戦後落語そのものの発展にも多大な功績を残した。

 「あっさり言えば、落語が好きやったさかい」。2008年、上方落語協会会長の六代目桂文枝(当時は三枝)さんとの対談で、噺家(はなしか)になった理由を聞かれたとき、こう答えた。東京での学生時代に師事していた寄席文化研究家の正岡容の勧めも大きく、「(正岡が)関西の噺家は今、元気のうなってしもとる。ひとつ、中興の祖となるのはいかが? と言った」と明かした。

 戦後間もないころ、上方落語は噺家の数が激減し危機を迎えていた。落語や講談の研究を続けていた米朝さんは、決意して1947年に四代目桂米団治に入門、三代目桂米朝を名乗り、復興を目指した。演じる場所を求め、落語会の会場として使われることが少なかった全国各地のホールで独演会を次々と開いた。

 「米朝落語」は、しぐさの一つ一つに至るまで常に完璧を求める一方、上方特有のあくの強さが少なく、関西以外の地域でも広く受け入れられた。マクラが絶妙で、古くて分かりにくい話も観客にかんで含めるように説明。初心者のファンから、落語通までうならせた名人芸は「落語は米朝に始まり、米朝に終わる」(落語作家の小佐田定雄さん)と言われた。

 得意ネタの多さでも知られ、埋もれた噺の発掘にも力を入れた。社会への風刺を込めた味付けがなされていたが、それは社会への批評眼の鋭さでもあった。

 舞踊、歌舞伎、能、狂言などにも精通。上方落語界の知性派といわれた。著書も多数。落語を学究的に突き詰め、古典落語の表現や構成を、現代の人にも伝わりやすいように工夫する姿は、弟子たちにも大きな影響を与え、技術を磨かせた。

 逸材だった桂枝雀さんや桂吉朝さんが早世する不幸もあったが、一門は月亭可朝さん、桂米団治さん、桂南光さんら多くの人気者を生み、上方落語の一大勢力になった。

 晩年は弟子と舞台に上がって「よもやま噺」をするスタイルに。最後の舞台出演となった2013年1月の「米朝一門会」では、満員の客席に向かい「いっぱい来ていただきまして、それだけで胸がいっぱいです」。隣に座った桂ざこばさんが感極まって涙声になると、「私も何か泣きとうなりました」と続け、会場を笑わせた。

 とぼけた味わいの会話にも、豊富な知識と経験、比類なき笑いのセンスが垣間見え、「往年の見事な落語を、もう一度聞きたい」というファンの声は最後まで絶えなかった。