前評判を覆し、日本をリオに導いた。11年から3大会連続でU-20W杯出場を逃し「世界を知らない」とやゆされてきた世代を率いて2年。日本人五輪監督との縁で成長し、6大会連続の五輪切符をつかんだU-23(23歳以下)日本代表の手倉森誠監督(48)が、日刊スポーツに思いを激白した。

 大会前はご心配お掛けしましたが、無事、決勝とリオ五輪行き決めました。得点力不足とか「手倉森じゃ無理だ」とか聞こえてきたけど、俺と選手のリミットを決めるなと思っていた。2年前の初陣(前回オマーン大会)では負けたイラク戦の前日に、練習着の日の丸の部分で足をふいていた選手がいて「国を背負う以前の問題だ」と怒ったことがあったけど、遠い昔。本当に成長してくれました。

 93年生まれの選手がドーハでロスタイムに決勝点なんて…。誰も書けないシナリオ。先発は5試合で計28人を変え(第3GK)牲川以外の全員を使った。9人で計12得点。選んだ武器はすべて使いたかった。すべては選手の成長のために。育てても負けたら意味がない。でも、ただ勝つだけでは足止めになる。自分は負けたら終わりだけど、日本は負けても終わらない。そのために必要なことをやり続ける監督でいたかった。

 ピリピリすべき局面で余裕でいるのは正直、難しかった。皆さんの前でポジティブでいられるのは、その前に心の中で最悪の事態を想像する作業を繰り返しているから。ふと1人になった時、負ける怖さを考えたら沈んだ日もあったし、できものが全く治らなかった時もある。でも自分は何か困れば仲間にしゃべっちゃうので。重圧は半分、喜びは倍。それが生命線です。

 歴代の日本人五輪監督と縁があり、ここまで来られた。アトランタの西野さんは09年の練習試合で会い「どんなサッカーをしても文句を言われる職業が監督。いつか見てろと常に思え」と教えてくれた。ACLを制した人でも反骨心を持っていた。アテネの山本さんは、自分が大分のコーチ時代にFW高松を視察に来ていた。その姿を見て五輪監督のイメージがわいた。08年に仙台で自分の解任危機があって後任候補に山本さんの名前が挙がった時は、いずれ代表の肩書がつくまで頑張ろうと思わされた。

 北京の反町さんは06年のS級ライセンス講習会で講義を受け、当時のU-21代表監督と戦術について議論させてもらった。ロンドンの関塚さんは鹿島の先輩。本大会前、当時J1首位だった仙台と真剣に練習試合できたことが4位になれた要因の1つと言ってくれたし、自分も現役の代表と肌を合わせた経験は大きかった。よく縁と言うけど本当にそう。伝統を途切れさせずに済み、安心しました。

 本大会は、本気でメダルを取りにいきます。東日本大震災で生かされた人間として、ますます希望の光になりたい。この世代はU-20W杯には出られなかったけど、日本のエリートなのは間違いない。彼らにメダル取らせることは、万年J2だった仙台をACLに行かせた時より簡単…いや、ちょっと簡単(笑い)。とりあえず泣くのは優勝してから。ロシア(W杯)に向けても可能性が膨らんできた世代とリオに行けるのは心が躍る。国民の皆さん、応援よろしくお願いします。(U-23日本代表監督)

 ◆手倉森誠(てぐらもり・まこと)1967年(昭42)11月14日、青森県五戸町生まれ。現役時はMF。双子の弟浩(現JFA復興支援特任コーチ)とサッカーを始め、漫画「キャプテン翼」立花兄弟のモデルに。五戸高時代は3年連続で全国選手権出場(85年8強)。86年に住友金属鹿島(現鹿島)に入り、日本ユース代表に選ばれた。93年にNEC山形(現山形)移籍。95年に引退してコーチに。13年まで監督。12年にJ1で2位。家族は妻と2女。173センチ、82キロ。血液型A。

 ◆リオデジャネイロ五輪男子サッカー 開会式前日の8月4日にブラジリアで開幕。6都市6会場で行われ、各大陸予選を突破した16チームが4組に分けられ、1次リーグを戦う。上位2チームが決勝トーナメントに進出。決勝は8月20日にリオデジャネイロのマラカナンスタジアムで行われる。