順大の今井正人(26=トヨタ自動車九州)は、箱根駅伝の5区山登りの歴史に残るスター選手だった。2年時に同区史上最多の11人抜きを達成。区間記録を2分17秒も更新した。3年時には17年ぶりの往路優勝、4年時には6年ぶりの総合優勝に導いた。3年間で合計20人を抜き去り、ついた異名は「山の神」。その原点となったのは、故郷、福島・南相馬市の聖地でのトレーニングだった。

 箱根駅伝史上、最もインパクトのある異名だった。

 「山の神」。

 今井がそう呼ばれる以前、「山登りの木下」(早大・金哲彦氏)「山男」(大東大・大久保初男氏)「山登りのスペシャリスト」(大東大・奈良修氏)と数々の呼び名が生まれた。だが東洋大の柏原が歴代最強の5区ランナーとなってついたのは「新・山の神」。今井が生んだ異名が最も愛された証拠といえる。

 今井

 初めて「山の神」と呼ばれたのは4年のレース直前。アップの時に日体大5区の北村君に「山の神ですね。一緒についていきたい」と声を掛けられた。

 3年連続区間記録、2年連続往路優勝でゴールする瞬間、テレビ中継では「山の神、ここに降臨!」と絶叫し、一気に浸透した。

 神のような走りはいつ形成されたのか-。原点は故郷福島の南相馬市にある。

 今井

 高校時代は1キロぐらいのダートコースを走った。地元の「相馬野馬追」というお祭りで使う雲雀ケ原祭場地に土のコースがあった。あと周囲には獣道、あぜ道みたいな所もあり、コース取りとかを考えて自分たちでメニューを組んだ。地元の特徴が強化につながった。足もバランスも鍛えられたし、登りから下りへの切り替えや、ひらめきも生まれるようになった。

 「相馬野馬追」は毎年7月に行われる神事で、1000年以上も前に平将門が野生馬を放し、敵兵に見立てて、軍人訓練をしたことに始まったと言われる。そして雲雀ケ原祭場地に隣接する本陣山(標高約63メートル)は福島県で最も低い山だ。今井は神への儀式を行う場所で、険しき箱根の山を駆け上がる「山の神」としての力を築いた。

 今井

 よく聞かれるけど、大学では山登り用の練習はほとんどしていない。順大の練習場の周りが軽いアップダウンになっていて登りをイメージしながら走ることを繰り返した。11月中旬には伊豆大島合宿で42キロコースを走り、うち7~8キロは急勾配だった。それが唯一ですね。

 初めて5区に挑んだのは大学2年の時。山登りで名をはせた順大OBの野口英盛氏(02年1位)や当時の仲村明監督(89年1位)から助言も受けた。もっとも本番では無心だった。

 今井

 しっかり攻めていたし、怖さも何もなくて行ってしまえみたいな感じ。無我夢中でした。気持ち的にも当たって砕けろと思っていた。5区はあまりコースの特徴を頭に入れすぎると走れない。助言はみんなが休みたいところであえてペースを上げてること。登ってから平たんに緩やかになるとこをスパートするように走った。前を見れば全部抜くと思って走った。

 気が付けば11人をごぼう抜きにした。前年の関東学連選抜の鐘ケ江(筑波大)が記録した9人抜きを超える5区史上最多記録。従来の区間記録を2分以上も更新する1時間9分12秒で走破した。翌06年から区間が2・5キロ延長されたため、不滅の記録となった。

 3年連続区間賞でも完璧な走りは2年の時だけだったという。3年生の時は9月に右腓骨(ひこつ)を骨折。出場が決まったのは12月30日で、当時の沢木部長が「3日後を狙うか、368日後(来年)の箱根を狙うかの決断だった」とまで言う状況だった。4年時は5区を経験しているからこそ失敗した部分もあった。

 今井

 3年時はプレッシャーはなかった。正直、区間5番くらいしか狙えないかと思った。でもコースも伸びたし、周囲からは比べられることもないのかなといい意味でプラスにとらえた。最低限の走りができればと思った。4年時は前年の走りをイメージしすぎた。前半で力を使いすぎて、本当なら最後の1、2キロの下りで30秒~1分は伸ばせたと思う。

 順風なレースばかりで神の称号を得たわけではない。そして卒業から2年後、箱根の山は早くも2人目の神を生んだ。早々と東洋大の柏原に継承され、少し嫉妬に似た思いはなかったのか-。

 今井

 あれだけやられたらスッキリする。柏原君に自分の記録に挑戦したいと言ってもらえたことはありがたかった。自分としても記録を更新されて、踏ん切りがついた。周りからの目はいつまでも「山の神」ですから。やっとそういう意味でスッキリした。【取材・構成

 広重竜太郎】