真央は強かった。フィギュアスケート女子で、9日の早朝に、肝硬変のため最愛の母匡子(きょうこ)さん(享年48)を亡くした浅田真央(21=中京大)が22日、9日にGPファイナルを欠場して緊急帰国した成田空港以来、初めて公の前に姿を現し、その思いを自ら語った。今日23日開幕の全日本選手権(大阪・なみはやドーム)の出場選手会見が行われ、つらく悲しい2週間を乗り越え、浅田が、フィギュアの世界に戻ってくる。

 もう心は震えない。笑顔さえ見せた。まだ四十九日の喪さえ明けていない。しかし、浅田は、まるで何事もなかったように振る舞った。母に関連する質問も出た。「お母さまにご不幸があった中で、出場を決断なさった大きな理由は何だったのでしょうか」。

 浅田

 GPファイナルから帰ってきて、とても忙しい日々でした。落ち着いたとき、気が付いたら試合まで1週間しかなくて、練習しないといけないと思いました。

 最愛の母を亡くしてから、まだわずか2週間しかたっていない。それでも、いつものように少し高い声で受け答えをこなした。

 浅田

 欠場するというのは思っていませんでした。周りから、頑張ってねとか言われたんですけど、もう頑張っているから、頑張らなくていいとも言われて。

 そう言うと、声を立てて笑った。それは、いつもの浅田の笑顔だった。

 違ったのは、この日、会場には、誰にも悟られず、裏口からそっと入ったこと。午後4時25分から始まった女子の非公式練習で、最後のグループに浅田は入った。リンクには、何事もなかったかのように7人の仲間とともに、勢いよく氷上に飛び出した。

 ピンクのウエアに、黒いスパッツ。髪はいつものように、後ろで束ね、氷の滑りを確かめるように、基礎練習を繰り返した。練習が始まって6分後、最初のジャンプはダブルアクセル(2回転半)だった。高さも十分で、きれいに着氷した。

 トリプルアクセル(3回転半)には2度挑んだ。1度は見事に着氷。1度は、着氷でバランスを崩し、ステップアウトした。30回以上のジャンプを跳んで、アクセルジャンプ以外は、大半がきれいに着氷した。「今日と明日とあさってと、自分ができる精いっぱいの調整をして挑みたいと思います」。

 12日の告別式後、翌日には中京大で練習を始めた。佐藤信夫コーチには「心の準備ができたら、頑張りたい」と連絡した。佐藤コーチは、所用があり、最初の練習には付き添えなかった。浅田は、1人だけで、練習リンクに戻った。佐藤コーチは「やはり心(しん)の強い子だ」と舌を巻いたという。

 非公式練習最後に、フリーの曲「愛の夢」がかかった。7人でわずか30分しかない練習のため、4分強のフリーの曲は最後まで流せない。しかし、曲が途中で終わっても、浅田は「愛の夢」の演技を最後まで滑り続けた。まるで、天にいる母に届けるように、そこには氷上をいとおしむ浅田の姿があった。【吉松忠弘】

 ◆浅田真央(あさだ・まお)1990年(平2)9月25日、名古屋市生まれ。5歳からフィギュアスケートを始め、05年世界ジュニア優勝。06年世界ジュニア選手権で3回転半に成功し、08年GPファイナルではフリーで史上初めて2度の3回転半を成功させた。10年バンクーバー五輪では銀メダルだったが、合計3度の3回転半を初めて成功させギネス記録に認定された。10年世界選手権優勝。163センチ、47キロ。