大会2日目の7月9日は上尾市民球場へ。目当てのカードは第2試合だったが、初めての球場ということもありまじめに? 9時開始の第1試合から取材することにした。

「青空」がきれいに並んだ北本のスコアボード
「青空」がきれいに並んだ北本のスコアボード

 渋谷から湘南新宿ライン籠原行きに乗り上尾へ一直線。タクシーで球場に到着した。入り口を見つけ球場内へ。すると下駄箱が置いてあり「靴を脱いで入ってください」との張り紙があった。そういえば以前訪問した同じ埼玉県の岩槻川通り球場でもスリッパに履き替えて記者席に入ったことを思い出した。

 第1試合、北本-南稜が始まった。スコアボードを見ると、8番投手田辺青、9番二塁田辺空という表記が目に飛び込んできた。選手の資料を見ると双子だった。青空ツインズ! これは記事になると思い取材開始。応援席で北本の揃いのTシャツを来たご婦人たちに「田辺くんのご家族はいませんか?」と尋ねるとすぐに両親を呼んできてくれた。8月1日に生まれたこと。その日は天気が良く青空が広がっていたこと。両親に「スコアボードに青空と並びましたね」と言うと「こんなこと初めてです。夢が正夢になりました」と感激していた。2人は小、中、高とずっと一緒にプレー。この日は1失点完投した兄の青投手(じょう)を、二塁手の空が堅守で盛り立てた。「お腹の中にいる時から助け合って生きてきたんでしょうねえ」と話すお父さんの言葉には実感がこもっていた。

 試合は4-1で北本が勝った。早起きは三文の徳。これが埼玉のメイン記事になった。詳しくは紙面で。

 第2試合は慶応志木-本庄第一。慶応志木にお目当ての選手がいた。背番号7、1番を打つ大嶋駿外野手(3年)だ。彼は中1の時、リトルリーグの世界一に輝いた「北砂リトル」のメンバーで主将だった。そう、早実・清宮幸太郎内野手のチームメートだったのだ。既に事前取材はすませており、本番での活躍を待つだけ。しかし、試合は1-7で完敗。大嶋は二塁打を含む4打数2安打1死球とまずまずの働きを見せたが、試合後は涙が止まらなかった。

 紙面に書けなかった話を書きたい。

 彼は中1で世界一になった後、一度野球を辞めた。「毎日つらい練習をして世界一になった達成感で少し野球から離れたいなと。もしかしたら野球を嫌いになりかけていたのかもしれません」。その後はチームに入らず中学の陸上部に入った。それでも野球への思いは断ちがたかった。父と神宮球場で東京6大学野球を観戦。早慶戦を見て慶大へのあこがれが生まれた。そこから猛勉強して慶応志木に合格。グレーのユニホームに袖を通し再び白球を追う日々が始まった。

 「野球に戻って良かったと思います。高校野球は、早かった。あっという間でした。去年秋の県大会で負けた日にそのまま学校に帰って練習したことや、いろいろな思い出がある。みんないいやつばかりで、いい仲間とやれたと思います」と話すと再び涙が止まらなくなった。

 清宮や北砂リトルの仲間とは今でも連絡を取り合い食事にも出かけるという。「全部、終わった時にまた北砂のグラウンドに集まりたい。まだ大会中の仲間もいます。(清宮の応援に)神宮にも行くと思います」。

 高校野球は終わった。今後は8月に右肘を手術する。実は昨年3月末の練習中に右肘を骨折した。試合に出るため手術を回避したが、現在は50メートルほどしか投げられない。ハーフスイングでは痛みも走るという。「大学で野球を続けるためです。ワイヤーかボルトを入れます。半年後には投げられるようになると思います」。

 取材が終わりようやく涙が乾いた。「次は神宮で会おう」。そう言って大嶋選手と別れた。

 清宮は東京大会の開会式で「私たちは野球を愛しています」と選手宣誓した。大嶋選手もまた、一度は嫌いになりかけ離れてしまった野球に戻ってきた。彼も間違いなく野球を愛する1人だった。再び「KEIO」のユニホームを着て、神宮で躍動する姿を見たい。そしてもう一度、取材したい。

本庄第一対慶応志木 試合後、応援席に挨拶する慶応志木ナイン。大嶋駿(左から3人目)はうつむく(撮影・伊作将希)
本庄第一対慶応志木 試合後、応援席に挨拶する慶応志木ナイン。大嶋駿(左から3人目)はうつむく(撮影・伊作将希)