全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える今夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫るシリーズ2「監督」の第11弾は、明徳義塾(高知)を率いる馬淵史郎さん(62)です。

 異色の経歴に、個性豊かな語り口。そして歴代5位の甲子園通算49勝を誇る実績。つらい時代を経験しつつ、勝利を重ねてきました。独特の歩みを刻んできた馬淵さんの物語を全5回でお送りします。

 2月22日から26日までの日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。


 冬のある日、今回の連載取材のため、明徳義塾高校を訪れた。高知市内から、西南方向へ車を1時間近く走らせる。左手に太平洋が見える。南国土佐の日差しが水面に乱反射していた。この景色が好きだった。そして駆け出しの頃の初々しい気分を思い出す。

 「もう20年か…。そら、年も取るもんやな」

 野球道場と名付けられた練習場に足を踏み入れると、馬淵監督がニヤリとした。私は日刊スポーツに入社して、すぐに四国総局に配属された。97年春のことだ。それから4年間、地方版の担当記者として、四国4県の地元ネタを追った。熱の高い高校野球は紙面の中心。赴任中に、明徳義塾は6度甲子園に出場。野球道場によく通った。

 今とは違い、当時は「ヒール(悪役)」のイメージが強かった指揮官だが、取材の思い出は愉快なものばかりだ。選手への指導はユーモアや流行を交えながら、分かりやすく伝える。リニューアル前の甲子園では試合後の取材が終わると、馬淵監督は必ずトイレに入った。私も後を追う。「あそこの作戦は…」「あれはな…」。並んで小便をしながら、追加取材した。夏の甲子園で敗れた直後には、携帯電話を鳴らした。「ありがとうございました」と取材協力の礼を言うと、こう言い放った。「もう帰りのフェリーに乗ったぞ。高知には朝に着くから、また練習や。終着駅は始発駅よ」。そのまま、記事の締めに使った。

 そんな指揮官だが、ただ1度だけ寂しげな表情を見た時があった。夕食を共にし、お互い、ほろ酔いの状態で自宅に誘われた。寮の中に、監督の部屋があった。こたつに足を突っ込み、雑談していると、おもむろに一冊のスクラップブックを持ってきた。あの星稜戦の各紙の記事が貼り付けられていた。敬遠策を肯定する記事もあったが、激しく非難する論調が目立った。

 「俺は、この記事を忘れんよ」

 馬淵監督はそう、つぶやいた。日頃は強気な姿勢を崩さないが、世間の猛烈な非難は、やはりその身に堪えたのだ。私はそう感じた。

 4年前には、「松井の5敬遠」を明徳義塾側の視点から短期連載を書いた。最後は馬淵監督の言葉で締めくくった。

 「松井君というすごい打者に、そういう策を考える監督。僕は純粋に勝負にこだわるのが、アマチュアだと思うから。そして、5打席敬遠せざるをえなかった点差。勇気を持って投げてくれた投手の河野。すべてが重なった。運命としか言いようがない」

 社会人野球・阿部企業の監督に就任してから、35年がたつ。勝敗にこだわる中で真理を追究する。私には、そう見える。今回の連載では「原点」に焦点を当てた。いかにして、監督馬淵史郎が生まれたのか。波乱の日々を過ごす中で、次第に監督業に引き寄せられる姿がそこにあった。【田口真一郎】