満を持しての甲子園。センバツも、夏も、不思議と雨につきまとわれ、雨を味方につけることはできなかった。

 「桶狭間の合戦、だよ」。江川は、やっと出場できた「夢の場所」での登板について、戦国時代の史実を引き合いに出した。

 「少数の織田軍が、今川軍の大軍を倒すんだよね。大雨と強風の音に紛れて“奇襲”をかけた…」

 そして続けた。「雨って、その後の人生を左右するんだよ。そのとき負けても、後の人生に生かせばいい。逆に、雨で自分に出番が回って、好転するときもある」。

 センバツの広島商との準決勝。日程通りなら4月4日。それが、雨で翌5日に順延された。つかの間の猶予が与えられたのだが、そこに“油断”が潜んでいた。

 甲子園室内練習場での調整を終えた江川は、宿舎2階食堂のソファでうたた寝していた。目が覚めると、首筋が硬く張って、動かそうとすると激痛が走った。寝違えたのだ。

 翌日、試合が始まり、一塁に走者を背負うと、やはり首の左部分に痛みがあり、けん制球が投げられない。フォームのバランスも崩し、機動力の広島商の好餌(こうじ)となった。8四球、4盗塁を許した。決勝点も8回2死一、二塁からの、重盗だった。捕手の亀岡偉民が三塁に悪送球して、最後まで足にかき回された。それでも、11個の三振を奪い、許した安打は遊撃へのものと一塁後方への詰まったタイムリー(記録は右前打)だけ。結局、外野には安打性の当たりと飛球を許さなかった。

 敵の捕手に、今季からソフトバンク1軍ヘッドコーチに就任した達川光男がいた。「(寝違いは)ずっと後、テレビの解説で一緒になったとき聞いたんよ。“夢なくして悪いけど…”って言うんよ。“寝違えてなかったら、その前の今治西戦くらい(20個)は三振取れてた”と言いよった」。

 広島時代にも、江川とは何度も対戦した。「『お前にはプロに入ってからも1回も全力で投げたことない』と言われてしもた。普通なら『何をえらそうな…』って反論するんやけど、そう言われても許せるくらい、すごかったんよ」。ここにも“江川フリーク”がいた。

 雨順延がなければ-。江川の口調には、自信が漂っていた。「力負けという感じはなかったからね。うまいチームがあるんだな、とは思った」。

 投げるたびに快記録。ケタ外れの奪三振率…。「怪物」の正体見たさの日本中の視線が、マウンドの1人の投手にのみ注がれた。

 センバツ開会式後の第1試合、北陽戦を5万5000大観衆が見つめた。プレーボールから打者4人が連続三振…。初めて打者のバットにボールが当たったのは、23球目だった。辛うじてかすった一塁側スタンドへのファウルに「おおっ、当たったぞ!」と、どよめいた。

 江川もそれを聞いた。「球場全体が何かシーンとして、5万人もいる感じじゃなかった。それが1回バットに当たったとき『ウオーッ』って。変なざわめきだった。でも、(バットに)当たらないのは(栃木の)予選も同じだから」と、平然と言った。大阪入りするときの宇都宮駅には人があふれ、作新学院の出発日が新聞休刊日と重なったことから、地元紙がこぞって、学院側に翌日にスケジュール変更を要請するくらい「江川の、江川による、江川のためのセンバツ」だった。

 「大騒ぎになってたけど、努めて普通にしたかった。やっと出られて、うれしいだけだった」。剛速球をうならせて、甲子園を震わせた。新チームからの連続イニング無失点は広島商戦の4回まで「139」に上った。

 奪った三振は1回戦から「19」「10」「20」「11」。いまだ不滅の「60」を数えるに至る。

(敬称略=つづく)

【玉置肇】


 ◆桶狭間の戦い 1560年6月12日(永禄3年5月19日)、尾張国(現愛知県)桶狭間で行われた合戦。2万5000の大軍を率いた今川義元軍と、わずか2000~3000人の兵力の織田信長軍の間で行われた。織田軍は、突然降り出した、視界をさえぎる豪雨(ひょうだったといわれる)に紛れて兵を進め、今川軍の本隊に奇襲をかけて勝利した。

(2017年4月18日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)