戦後初の夏の全国大会は初代王者・京都二中の試合から始まった。第2次世界大戦による中断を経て、終戦翌年の1946年、全国中等学校優勝野球大会が西宮球場で復活。8月15日、大観衆に迎えられ、京都二中は成田中(千葉)との開幕戦に登場した。先頭打者で初回表、四球を選んだのが黒田脩だ。京都二中は学制改革で48年に廃校となり、84年に後継校で鳥羽が開校。15年の「100年の夏」は甲子園に出場した。

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 88歳の今も、黒田は意気軒高だ。5月末に大阪・豊中市内の「高校野球発祥の地記念公園」で「100回つなぐ始球式リレー」の出発式が行われた。黒田は京都二中の復刻ユニホームで参加し、投球を披露した。

 72年前の夏、連合国軍総司令部(GHQ)に接収されていた甲子園の代わりに西宮で復活した全国大会。京都二中は決勝で快腕・平古場昭二を擁した浪華商(大阪=現大体大浪商)に0-2で敗れたが、学生野球の父、飛田穂洲に「浪商平古場を相手にここまで戦い得るものは、同チーム以外になかったであろう」と健闘をたたえられた。三塁手だった黒田は、第1回優勝メンバーも100回の夏を戦う現メンバーも知る歴史の証人だ。

 黒田 2000年のセンバツに卯滝君が鳥羽を率いて出てくれた。彼は1つのものを持ってる、高校野球のプロ。今の山田君は若い穏やかな人やけど、芯がある。選手もね、ぼくらのときよりよっぽど上手です。

 鳥羽初の甲子園出場を果たした卯滝逸夫、現監督の山田知也ら指導者、府内強豪としのぎを削る後輩球児への感謝を黒田は語る。

 第1回大会を制したチームの主将、中啓吉は礼儀作法にうるさく、試合では「(球に)当たってでも塁に出ろ」と説いた。10代の少年には怖いおっちゃんにも思えた中らは、46年夏の全国大会出場を祝い、すき焼きをふるまってくれた。

 黒田 予選の決勝前のボール回しのときに、4番の下村が「今晩、すき焼きやぞ」って言いよった。ほんまでした。今の南座の向かいにあった祇園会館の屋上で、すき焼きでした。

 食糧難のさなかの、何よりの壮行だった。迎えた開幕戦。監督の田丸道蔵が黒田に「クロ、1番でいくえ」と声をかけた。

 平安中で野球をしていた田丸は、老舗の京菓子店「笹屋伊織」の主だった。戦中戦後は砂糖が手に入らず、一時休業。京都二中に通う息子、道夫の野球を見るうちに、監督になった。復活大会の開幕試合、先頭打者に黒田を選んだ。

 黒田は転校生だった。大阪で被災し、京都に一家で疎開。通学可能な学校を探し、46年4月に京都二中に転校。野球が好きだったこと、クラスに野球部員がいたこと、担任が野球部長だったこと。そんな縁で入部を決め、試合で結果を出してレギュラーになった。

 黒田 監督はキャッチボールを見て、見込んでくれた。ただ、それまで打ったこともない打順を言われて「そんなアホな」みたいなことを言うたらしいわ。そしたら田丸さんは「他のヤツは緊張してあがったら、目の上のボール振りよる。クロは違う。お前はそれを見られる。だから自信持て」と、そういう意味のことを言うてくれはった。ぼくにかけてくれはったんです。

 多くの人命を犠牲にした戦争。海草中(和歌山=現向陽)・嶋清一ら甲子園を沸かせた逸材も戦地に送られ、帰らぬ人になった。個が省みられなかった不幸な時代だった。

 田丸は黒田の可能性にかけた。緊張をはね返せる個性を信じた。人と人との信頼こそ、球史をつないできた糸だった。終戦から1年。46年8月15日。野球が復活したのだ。(敬称略)【堀まどか】

15年8月、岡山学芸館戦を応援する京都二中時代のOB、(左から)河畑鎭さん、黒田脩さん、金森正夫さん
15年8月、岡山学芸館戦を応援する京都二中時代のOB、(左から)河畑鎭さん、黒田脩さん、金森正夫さん