高校最後の夏、第1打席で中前適時打を放った柳川商(福岡)末次の勢いは止まらなかった。1976年(昭51)8月13日。三重との初戦は4打席に立ち、4打数4安打だった。

末次 三重戦のヒットは全部きれいなライナーだったんですよ。打ったのも全部真っすぐでした。

第2打席は2-0で迎えた4回先頭打者。またもセンター前に運んだ。第3打席は続く5回。「右安」と記録された打席をこう回想する。

末次 はっきりは覚えてないけど、確か二塁手の足もとをライナーで抜けたような感じかな。二塁手の右横でショートバウンドして抜けたような。そんなヒットだった。これも真っすぐでしたね。

最終打席は8回だった。先頭打者として二塁打。これは鮮明に覚えている。

末次 外角の直球でした。きれいに打てました。ライト線への大きな当たりで二塁打。実は長打はこれだけなんです。8本中7本が単打でしたね。

4安打打ち、試合にも勝った。それまで春夏通じて5度甲子園に出場しながらすべて初戦敗退だった柳川商にとって、6度目の挑戦で待望の聖地初勝利だった。末次自身2年春のセンバツは初戦で散っているだけに、4安打したことより、勝利の喜びがすべてだった。苦しい思いをした分、反動で喜びは倍増した。

当時の監督、福田精一の指導は厳しかった。朝から晩まで練習。寮に帰っても夕食後に、また個人練習が待っていた。夜中まで素振りを繰り返す日々。真夏のグラウンドでも水を飲むことを許されず、ひたすら走らされた。夏休みは、ほぼ毎日4、5人倒れ、救急車が呼ばれていた。倒れても病院で点滴を打って帰って来て、また練習。学校の5時間目くらいになると、泣きだす野球部員もいたという厳しさだった。悲しいこともあった。末次が1年の時、同い年の月足彰法が練習中に倒れ、帰らぬ人となった。8月上旬の暑い日、練習の終わりのベースランニング中に倒れた。

末次 厳しかったしつらかった。でもみんな必死だった。うまくなりたかったし勝ちたかった。

2年春は、月足の遺影を主将のアンダーシャツに縫い込んで出場していた。末次はそのセンバツで4打数1安打に終わっていたが、1年半後、4安打でチームを勝利に導いた。

末次 自分が打ったことより勝って良かったと思った。誰からも4本も打ったなと言われなかったし、自分にも4本も打った意識もなかった。まあ凡打しなくて済んだ、怒られずに済んだと思っただけ。自分の成績を意識する余裕もなかったんですよ。

厳しくつらい練習や、チームメートの死…。すべてを乗り越えてつかんだ甲子園初勝利だった。そして、すべて会心の当たりで放った4安打という結果を生んだプロセスもまた、想像を超える過酷なものだった。(敬称略=つづく)【浦田由紀夫】

(2017年10月4日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)