名古屋に駐在していた一昨年まで、プロスカウトから何度も聞いていた。「大学野球は今、岐阜が面白いよ」。確かに岐阜リーグはプロ野球選手を輩出し、全国でも躍進が目立つ。ほんの20年前までリーグの形すらなかったのに、何が起きているのだろうか。

岐阜が独立してリーグ戦を始めたのは99年秋から。最初の15季は朝日大と岐阜聖徳大が優勝を分け合った。07年春に2大学以外で初めて優勝したのが中部学院大。以来、昨秋まで24季で14度優勝とめざましい。

04年に就任し、強化に努めてきた原克隆監督(50)を4月に訪ねてきた。岐阜県関市のキャンパス内にある専用球場は立派で、約130人の部員が思う存分、練習できていた。

施設を案内してもらうと、監督は端の草むらを指さした。「最初はこんな感じでした。草原ですよ。石ころだらけで」。15年前の就任時、倉庫にはテープでぐるぐる巻きにした硬球がケース2箱。ぼろぼろの防球ネットが2枚。部員は十数人いたが、投手は最速が100キロ台の2人。比較的、肩の強い捕手を投手に回したら125キロだった。

県岐阜商、東北福祉大、昭和コンクリートと名門を歩んできた同監督は面食らったが「逆に自分の色を出せるな」と前を向けた。大学側と必死に折衝してグラウンド、寮、室内練習場と環境整備に着手。地方の名も知れぬ大学に選手を呼ぶには不可欠な要素だった。自らのパイプをフル活用して何とか選手を確保した。ほどなく結果は出る。中部学院大の躍進に引っ張られて、他大学のレベルもぐんぐん上がっていった。

貴重な体験が生きた。現役時代の東北福祉大は全国区に上り詰めていく過程にあった。91年に関東、関西以外のリーグ所属では、70年の中京大、86年の愛工大に続く優勝。旗印の「東京、大阪の大学に勝つ」をついに実現した。同大を「地方大学の雄」に押し上げた伊藤義博監督(故人)の苦労を学生コーチやコーチとして間近で見てきた。

伊藤監督は人を育てる人だった。巣立った選手たちは今、多方面で指導者として活躍している。同じようにプロを多数出している八戸大(現八戸学院大)を率いた藤木豊前監督らもそう。都市部以外の大学同士で交流しながら今も切磋琢磨(せっさたくま)を続ける。少子化に悩む各大学も、生徒確保のため野球部強化に興味を示し始めた。

「これだけ野球人口どうこう言われている時代ですが、実は大学野球の人口は増えているんですよ」と原監督。たしかに全国の総部員数は右肩上がり。この10年間で約1万人も増え、3万人に届く勢いだ。球児にとって甲子園への挑戦が一区切りだった時代は、元号変更を待たずして終わっているのだと知った。【柏原誠】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)