今から140年前の1876年(明9)、東京で行われた日本人学生と在留米国人との試合。25年ほど前、その記録が見つかり、謎だった日本野球史に光が照らされた。きっかけは、たった1枚のコピー紙面。それは野球史の研究家からすれば宝物とも呼べるものだった。(敬称略)

(2016年5月10日付紙面から)

明治9年に日米野球が行われた東京・神田錦町の学士会館前には記念碑が立つ
明治9年に日米野球が行われた東京・神田錦町の学士会館前には記念碑が立つ

 「その日は朝から慌ただしい雰囲気だったんです」。1991年(平3)12月21日、野球殿堂博物館の新(あたらし)美和子学芸員(当時)は、準備に追われていた。書類の整理をし、展示物を確認。そんなところへ、1人の米国人がやって来た。名をフィリップ・ブロックといった。

 ブロックは著名な野球研究家を兄に持つ。日本で弁護士の仕事をするかたわら、その手伝いをしていた。資料となりそうなものを集めては兄の元へ持ち帰っていた。ブロックは日本語を話せたが、読むことはできなかったので、資料集めを新が手助けしていた。そのお礼にと、1枚のコピーを持って来た。

 それは米国の野球殿堂(ニューヨーク州クーパースタウン)に眠っていたニューヨーク・クリッパー紙の新聞をコピーしたものだった。日付は1876年(明9)12月23日。新は、ブロックの資料集めを手伝った後、デスクに置きっぱなしになっていた英字新聞のコピーを手に取った。内容を知った途端、息をのんだ。「ほんとにびっくりしました。これは大変な資料だって、すぐに気が付きました」。ずっと欲しかった情報が記してあった。

 細かい数字がズラズラと並んでいた。報じられていたのは5試合ほどの野球のスコア。その一番上にあったのが、在留外国人対日本人の試合だった。これまで、口伝や俳句の題材などで野球の国際試合がこの時期に行われたであろうという推測はされていた。だが、証拠がなかった。それまでは1896年(明29)5月23日に横浜で行われた旧制一高―横浜外国人の試合が、最古の記録だった。100周年の1996年には、横浜スタジアムで東大OB-YCACの記念試合が行われ、盛り上がった。最古の日米野球とされる試合よりも20年前の紙片は、空白の野球史を埋める、いわば宝物だった。

 記事に記された日本人チームの名は「Imperial College at Tokio」。つまり、東京開成学校の日本人学生だったと書いてある。今の東大だ。そして驚くべきことに、両チームの出場選手の名前までが記されていた。新は初め、その内容を疑うことから始めた。「架空の話かもしれませんから」。だが、運動場の観覧席の様子などの記述が、他の文献とも一致するなど、真偽を疑う必要はなくなっていった。「ここに、試合後に何人かが横浜に帰らないといけないから、試合は7回の裏で終了とした、と書かれています。おそらく試合は東京で行われたのでしょう」。

 試合が行われたのは、東京都千代田区神田錦町。今の学士会館が立つあたりだと推測される。明治9年当時は、そこにグラウンドがあった。現在、敷地内には野球のボールを握った手の記念碑がある。これは、日本に野球を伝えたとされる開成学校の教師ホーレス・ウィルソンの野球殿堂入りを記念して、「日本野球発祥の地」として建てられた銅像だ。

 明治9年という年は廃刀令が発布され、武士の時代が終わりを告げようとしていた頃だ。その年の初夏、好天に恵まれた東京で日米野球が行われた。米国に追いつけ、追い越せと日本で野球が発展していく第1歩となった試合。米国側の「3番左翼」で出場したのは、そのウィルソンだった。(つづく)

【竹内智信】