野球は日本に、米国人ホーレス・ウィルソンによってもたらされたとされる。1876年(明9)に行われた日米野球のプレー風景は、今の野球とはかなり異なるものだ。研究から草創期の姿が分かってきた。(敬称略)

(2016年5月12日付紙面から)

明治9年と同時代の米国の野球風景の模型。投手が下手投げで守備は素手なのが分かる(野球殿堂博物館提供)
明治9年と同時代の米国の野球風景の模型。投手が下手投げで守備は素手なのが分かる(野球殿堂博物館提供)

 初夏の気持ちいい晴天の土曜日だった。東京・神田のグラウンドには、東京開成学校の生徒たちが集まっていた。同校で教壇に立っていたウィルソンら、お雇い外国人たちも道具を持ち寄った。少しイライラしていたかもしれない。1人、メンバーが足りなかったからだ。始められようとしているのは、日本人学生とお雇い外国人による野球の試合。大勢の観客が詰めかけていた。

 ただ当時は、今の野球とはかなりルールが違っていた。まず、打者は投手に対して、高めか低めのコースを指定することができた。投手は下手投げで、要求されたコースに山なりのボールを投じた。グラブもミットもなく、野手はみんな素手で守った。邪飛はワンバウンドで捕球すればアウトだった。

 この年、米国では9ボールで打者が一塁へ歩くというルールができていたが、この試合が最新のルールで行われたかは定かではない。和服のはかまをまくり上げ、はだしでプレーするのが、当時の学生の間では一般的だったが、これもこの試合については不明だ。

 米国チームの中堅手不在のまま始まった試合は、思わぬ展開になる。米国が1回に5点、2回に1点を奪って貫禄を見せつけた。しかし5点差で迎えた3回、学生たちのバットが快音を響かせる。2人しかいない外野を鋭く破り、一気に6点を奪って逆転に成功した。その後、大量失点し11-34で敗れたものの、観客に大きな興奮を与えた一戦になった。

 当時の試合は、各打者の得点とアウトになった数が記された。つまり、得点を多く重ね、アウトになった回数の少ない打者が好打者ということだ。米国チームには1人の怪物がいた。4番捕手のデニソンがその人だった。

 ニューヨーク・クリッパー紙のコピーを日本に持ち込んだフィリップ・ブロックは、この選手について研究し、2000年6月の日本経済新聞に紹介記事を寄せている。それによるとデニソンは、ナ・リーグの4代目会長も務めたエイブラハム・ミルズに才能を見込まれ、ワシントン・オリンピックスというチームで主軸を打った。まだ大リーグが正式に発足する前の草創期の話だ。その後来日し、明治9年の試合でも7得点でアウトになったのは1度だけだった。

 1865年まではフェアの飛球もワンバウンド捕球でアウトになった。スカイボールと呼ばれた飛球はなるべく打たないようにするのがセオリーだった。デニソンのライナーかゴロの鋭い打球が、学生たちの間を抜けていったはずだ。

 デニソンは一方で、近代国家を目指す日本のために、大きな足跡を残した。この試合のずっと後だが、外務省の法律顧問として外交機密にも深く関わるようになる。外務大臣の小村寿太郎とともに1905年、日露戦争の講和会議でポーツマス条約締結に携わった。晩年、東京・築地の聖路加病院に入院していた際には、大正天皇からお見舞いのぶどう酒が届いたといわれる。日本政府から勲1等が贈られ、青山霊園にある小村寿太郎の墓所の近くに眠っている。(つづく)

【竹内智信】