第104回全国高校野球選手権大会は、7月31日に49地区の代表校が決定した。創部初のセンバツ4強入りを果たした国学院久我山(西東京)は、準々決勝で敗れ、春夏連続の甲子園出場を逃した。

宍戸凌太捕手と内田玲央内野手は、ともにベンチ入りメンバーから外れた3年生。2人は献身的に練習のサポートを務め、目標の日本一のために力を尽くしてきた。

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宍戸はブルペン捕手を務める時だけ、左手の親指に白いテーピングを巻く。

「低めのボールを下からすくうように捕るためです。ピッチャーが気持ちよく投げられるようにと」

テーピングをしていることを、投手陣に漏らしたことはない。

「僕のことで気を使わせたくはないので」

チームへの尽力は、痛みと引き換えだった。

同じくベンチ入りメンバーから外れた内田は、チームメートが赤いソックスとシャツを着用する中、ただ1人だけ、全身真っ白のユニホームで登場する。

「新チームになったばかりの時に、白いソックスで練習に行ったら、監督に『なんでソックスだけ白なんだ?』ってツッコまれて。『やるなら全部白でいけよ』って言われたんです」

尾崎直輝監督(32)は冗談交じりに言っただけだったが、翌日からアンダーシャツも白色に変えた。今年の年初めには、ベルトも白色に新調。すると監督からのお下がりで、国学院久我山の「K」のマークが刻まれた白い帽子をプレゼントされた。

「コンプリートです。白い格好は白星を目指すという意味でやっています」

明るいキャラクターで和ませながら、ノックの補助や実戦練習の審判を買って出ている。

2人は大会直前まで、主力の多いAチームに帯同していたが、メンバー入りを逃した。

捕手の宍戸は「メンバーを外れることは、うすうす分かっていました」と言う。3年間で1度もベンチ入りできなかった。

「やっぱり悔しいですよ。思い描いていたのは、背番号をつけてプレーしている姿だったので」

表情は崩さなかったが、心は揺れていた。

代打として出場機会をうかがっていた内田も、正直な思いがこぼれる。

「もっと打席に立ちたかったです」

同学年の2人は日頃から、“宍戸さん”“内田さん”と呼び合う。そこに深い理由はないが、内田は「僕は宍戸さんと同じ境遇なので、分かり合える部分がある」と言う。努力の末のメンバー外。お互いの胸の内は、よく分かった。

心が沈みかけたが、監督の言葉が2人をつなぎ留めた。

「悔しいと思うが、チームで勝つことも大事。最後に3年生が、何を残せるのかだぞ」

下を向いてはいけないと思った。感情にふたをし、3年生として最後の献身を示そうと前を向いた。

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夏の大会直前。尾崎監督は柔和な表情で、その姿をたたえていた。

「今日も試験期間中なので、無理に練習に出てこなくていいよと伝えてはいるんですが、自分で判断して、グラウンドに来ているんです」

実は宍戸は難関国立大学を、内田は東京大学を志望している。内田にいたっては、成績もオール5。それでもチームを優先し、存在価値を見いだしている。

「今の3年生は、そういうところが本当に素晴らしいです。彼らがいてこその、国学院久我山だと思っています」

笑顔でうなずいていた。

この夏、春夏連続の甲子園出場と日本一をつかみとりたかったのは、メンバーを外れた3年生に、恩返しするためでもあった。

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迎えた夏の大会。国士舘との準々決勝は、2回に満塁本塁打を被弾し、4点を追いかける展開となった。

0-4の5回裏2死二塁。斎藤誠賢外野手(3年)が打席に立つと、三塁側ベンチからひときわ大きな声が聞こえてきた。

「誠賢、1人じゃないぞ。つないでいけ」

記録員としてベンチ入りしていた内田の声だった。スコアブックを片手に、初回から声を張り上げていた。

だが、思いは届かなかった。斎藤は一ゴロに倒れ、チャンスはついえた。次の回に投手陣が4失点。あまりに手痛かった。

そのまま試合が終わった。2-8で敗戦。制服姿の内田はあふれる涙を手で拭った。

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現チームは昨年11月にイチロー氏(48=マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)から直接指導を受けたこともあり、“イチロー効果でセンバツ4強”と脚光を浴びることもあった。しかし、今年の国学院久我山を押し上げたのは、それだけが要因ではないようにも思う。

準々決勝敗退後、4番の下川辺隼人内野手(3年)は言葉を振り絞った。

「出ている選手が思い切ってプレーできる環境づくりを、メンバー外の選手たちがしてくれた。そういうチームで野球ができたことをうれしく思います」

宍戸や内田のように、ベンチに入れなかった3年生の献身と、思いに応えようとするレギュラーメンバーの奮闘。呼応の関係があったからこそ、センバツ4強に慢心することなく、高め合うことができた。

創部初の歴史を築いた3年生が残したのは、結果だけではない。“チームとは何か”を示し続けた代だった。【藤塚大輔】