<日本S博多の陣>
ソフトバンク東浜巨投手(28)がポストシーズン12試合目で初勝利を挙げた。5回まで先頭打者を全てアウトに取り、ゲームをつくった。4回には鈴木に中堅左へソロを浴びたが、最少失点で切り抜けた。5回1失点。「チームが勝つことが一番。その中で個人的にも勝ちがついた。今回のウイニングボールは大事にしたい」と、ナインから贈られた白球を握りしめた。
1回は中堅柳田、二塁明石、捕手甲斐の中継プレーに助けられた。「あれで救われた。乗っていけた。広島打線は初球から振ってくる。初球から決め球のつもりで投げた」。
昨年最多勝を挙げ、今季はキャンプから調整を任された。例年は実戦に投げて調子を上げるスタイルだったが、3月の侍ジャパンに選出されたことなどが影響し、オープン戦での登板は2試合のみ。結果も出せず「もっと投げればよかった。任せてもらえるレベルではなかったかもしれません」と無力さに打ちひしがれた。開幕後もなかなか勝てないまま、右肩を痛め5月26日に1勝5敗で降格。だが、2カ月半のリハビリ後に8月7日から復帰すると、そこから9戦6勝負けなし。抜群の安定感を発揮し、ポストシーズンでは軸となった。
千賀、武田と先発の中心は自由人が多い。その中で、今季左肩痛で1軍登板のなかったベテラン和田から「東浜こそエースになるべき存在」と認められた。東浜は「(第7戦は)何でもいける準備はしていく」と、もつれれば再びマウンドに上がるつもり。投手陣の精神的支柱となる。
ソフトバンク東浜が亜大に入学した直後、09年春に聞いた言葉がある。3年生になった日本ハム斎藤(当時早大)に続くスターを欲していた大学球界は、沖縄尚学でセンバツ優勝し、ドラフト1位確実だった右腕に沸いた。1年春から東都大学リーグで4勝を挙げ、フィーバーが起きていた。
「僕は『なんくるないさー』って言葉、好きじゃないんです」
明るく奔放な沖縄を象徴するかのように「何とかなるさー」という使われ方で流行していた時代。甲子園で沖縄代表校のアルプスに行けばアルコールの香りが漂い、指笛が響く。高い身体能力はあっても「沖縄タイム」と呼ばれた時間のルーズさもささやかれた。沖縄出身選手の指名をためらうスカウトもいた時に、18歳の東浜は周囲に流されない意思を持つ存在だった。
同じ09年、東京6大学リーグでは明大2年の広島野村が、前年秋に44年ぶりの防御率0・00を記録するなどブレーク。ともに夏の日米大学野球の日本代表に選出された。互いにドラフト1位で入団し、大学、プロを通じて初の投げ合いで東浜が勝利した。
この1勝が、沖縄出身投手の日本シリーズ初勝利になった。80年以降東浜を含めて計9人が登板したが、白星はつかなかった。
80年 広島 安仁屋宗八
88年 中日 上原晃
97、98年 西武 デニー友利
99年 ☆ダイエー 佐久本昌広
03年 ダイエー 新垣渚
09年 ☆日本ハム 糸数敬作
12年 ☆巨人 宮国椋丞
17、18年 ソフトバンク 嘉弥真新也
※☆は先発
昨年は16勝で最多勝に輝き、今季のパ・リーグ最多勝は沖縄出身の西武多和田だった。実績を考えれば不思議なほど遅かった県勢初勝利は、「なんくるないさー」ではない準備を積み重ねてきた東浜がつかんだ。【前田祐輔】