かつてプロの世界で活躍した野球人にセカンドキャリアを聞く「ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ」。今回は元近鉄投手で現在は関西独立リーグ・ゼロロクブルズ(東大阪市)で監督を務める村田辰美氏(67)です。

近鉄球団の消滅を機に加圧トレーニングのインストラクターとして第2の人生を歩んできた村田氏が選んだ新たな挑戦とは…。【聞き手・安藤宏樹】

-今年からゼロロクブルズの監督に就任されました。近鉄時代の後輩で今季から中日打撃コーチとなった村上隆行さんの後を受け、67歳での現場復帰です。

村田氏 まさか指導者としてユニホームを着るなんて思っていませんでした。村上から「村田さんしかいない」と言われましてね。野球をやってきた人間として若い選手とグラウンドで汗をかけることはやりがいがあると思っています。

-チームとのかかわりはあったのでしょうか。

村田氏 村上が監督をしていたのでは知っていましたし、仲間とチームの支援コンペや、グラウンドで指導したこともありました。ただ、私に監督の話がくることなど予期していませんでした。

-8月から元阪神の桜井広大氏がコーチに就任されたようですが、現場は大変だと思います。

村田氏 就任直後はコーチも不在で練習の準備からノック、打撃指導まですべてを1人でやっていました。7月に右肩が上がらなくなり、病院で検査を受けたら「腱板(けんばん)不全断裂」と診断されました。今も痛みがあります。慣れない外野ノックが原因のひとつだと思います。桜井コーチが来てくれて助かっています。チームをひとつにまとめるという意味で投手陣の整備から始めました。関西独立リーグは4球団で運営され、年間48試合を戦うリーグ戦方式で優勝を競うのですが、現在、首位争いをしています。

-少し話をさかのぼらせてください。95年に近鉄を退団。野球解説者を経て、加圧トレーニングのインストラクターを始められたのは05年ごろでしょうか。

村田氏 近鉄バファローズがなくなると聞いたときに、これでおそらく解説などの仕事がなくなるな、と直感しました。なにか軸になる仕事を探さないといけない。そんなときに加圧トレーニングを紹介してもらい、すぐに資格を取りました。

-04年の近鉄球団消滅が転身の契機となった。一連の球団再編問題はOBにも影響を及ぼしたわけですね。

村田氏 近鉄にかかわる仕事をしてきたわけですからショックでした。最初は自宅のある羽曳野で開業したのですが、1年でたたみました。人口の多い大阪に出て、市内のスポーツジムなど歩き回り、ホテルの会員制ジムと契約しました。最初は新聞のチラシ広告やポスティングを入れたりして、お客さんを必死で獲得しました。そのホテルで10年。いまのジムに移って2年になります。お客さんから予約が入ればいつでもジムに出ます。完全予約制、マンツーマンですので年中無休です。

-近鉄には左の本格派として入団されています。

村田氏 子供のときからプロ野球選手になるのは夢だったのですが、社会人から近鉄に入った時点で目標を達成してしまった。プロに入るのが目標で活躍するのが目標ではなかったということです。即戦力で取ってもらいながらプロに入ったことで満足してしまい、1、2年目は期待されながら何もできないまま悶々(もんもん)としていた。秋田のオヤジにはひと花咲かすまでは帰ってくるなと言われ、このままでは終われないと思っていた3年目の夏ごろでした。練習のときにサイドスローで投げてみたらキャッチャーの有田修三さんに「強いボールだ」と言われました。たまたまその当時の投手コーチは下手投げだった杉浦忠さん(元南海投手、監督)。伝説の投手にひじや下半身の使い方も教えてもらえた。球種もシュートを増やし、左打者を打ち取る中継ぎ投手としてようやく結果を出すことができたのです。

-フォームを変え、その後は主に先発投手としてプロ通算85勝をマークされています。現役時代の一番の思い出は。

村田氏 初優勝した79年の前期最終戦で先発させてもらった試合です。大阪球場での南海との試合。引き分け以上でなければ優勝を逃す大一番。前の晩は緊張して寝られなかった。球場は大観衆です。そんな中で1-1で引き分け、完投して前期優勝を勝ち取りました。プレーオフでは阪急に3連勝。球団の初優勝につながった前期最終戦がもっとも印象に残っています。

-90年に横浜大洋に移籍、そのシーズン限りで現役を引退。評論活動を経て93年に投手コーチとして近鉄に復帰されました。

村田氏 鈴木啓示監督のときです。現役時代に一緒にやっていた投手を再生してほしいということで呼んでくれたのだと思います。当時は野茂英雄だけが突出していて、89年にリーグ優勝したころの投手たちの影が薄かった。94年の開幕戦はよく覚えています。野茂が8回まで西武打線相手にノーヒット投球。9回表に石井浩郎の先制3ランが飛び出します。9回裏、清原に二塁打を打たれて記録はなくなった。ここで監督がマウンドに行くのです。その後、四球、エラーで満塁。ここでまた監督がマウンドに。2回目ですから自動的に交代です。私はブルペンにいたのですが、本当にビックリしました。ほとんどピッチングをしていなかった赤堀元之をマウンドに送り出したのですが、伊東勤に逆転サヨナラ満塁弾。このシーズンは夏場に連勝して首位争いまで持ち込んだのですが、野茂も故障などで2軍生活が長く、結局、優勝には届きませんでした。

-野茂はこのシーズンを最後にメジャー挑戦。その契機となった試合とも言われています。ところで現在はインストラクターと独立リーグ監督という二足のわらじをはかれています。これからの目標は。

村田氏 インストラクターの仕事は「年中無休」と話しましたが、資格をとったときに「年中夢求」を座右の銘にしました。夢を求めると書きます。今はブルズの監督としてNPBに1人でも2人でも送り込みたいという「夢」も加わりました。リーグ戦は10月まで続きます。「年中夢求」の精神で優勝を目指しつつ、NPBに進める選手を育てていきたいと考えています。

◆村田辰美(むらた・たつみ)1952年7月9日生まれ。秋田県出身。六郷高、三菱自動車川崎を経て74年ドラフト2位で近鉄入団。86、87年に開幕投手を務めるなど中心投手として活躍。90年、横浜へ移籍し引退するまで通算404試合に登板、85勝90敗10セーブ、防御率4・19。左投げ左打ち。引退後は近鉄投手コーチ、プロ野球ニュース解説者などを経て加圧トレーニングインストラクター。現在は大阪市中央区にある「CREW GYM 24」に勤務。今年から関西独立リーグ・セロロクブルズ監督も務めている。