日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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徳島・宍喰(ししくい)の町民のほとんどは、上田利治のことを「とっしゃん」と呼んだ。年の上下、性別にかかわらず、ニックネームで慕われた。地元で計30年間、高校野球の監督を務めた片山要(71)も上田から影響を受けたひとりだ。

「こっちに帰ってくるたびに、酒席などに招いていただきました。とっしゃんはサインによく“一歩、一歩”と書いた。結果よりプロセス、積み重ねてこそ結果につながると教わってきました」

母校の宍喰商(16年)、海南(6年)、小松島(4年)、城西(4年)の4校で指揮を執った。いずれも弱小チーム。県内の球児は蔦文也の池田、徳島商の2強に集まった。そんな状況で、通算1654試合に指揮を執った成績は687勝874勝93分けだった。

「わたしも蔦さんが『山あいの町の子供たちに1度でいいから大海をみせてやりたい』と話したのと同じ気持ちでした。でも生徒がいて、自分がいて、その気持ちをひとつにして野球をすることが素晴らしいと思うんです」

チームをまとめるために、上田流の「統率力」をヒントにした。上田が選手の誕生日に直接声を掛けたと聞けば、片山もそれをまねた。生徒にアンダーソックス、ハンカチをプレゼントするなどして、心をつかみにかかった。

海南ではグラウンドの照明器を自費で購入したことが新聞に掲載され、夫人の圭子にバレてあきられた。小松島では内野部分を赤土から黒土にするのにダンプ8台で運搬。城西でも自力で移動用のマイクロバスを手に入れた。

「子どもたちを育てながら甲子園に連れていくことは難しかったです。氷のなかに花を咲かせるようなものでした」

片山は指導者の条件に「今でも正解がわかりません」という。ただ甲子園で采配をふることはかなわなかったが、勝負に徹した上田のような“熱さ”を意識してきたつもりだ。

上田と海南(現海部)でバッテリーを組んだ1年後輩の谷口良一は「あの後藤田さんが政治家にできなんだと残念がったというから、それぐらい買われとったんでしょうね」と説明する。

徳島出身の政治家で、かつて官房長官だった後藤田正晴(05年9月19日死去)は、上田が抗議する姿に「選挙の戦い方に通じる。熱くないと人はついてこない」と評価したという。田中角栄、中曽根康弘ら、歴代の政権を支えた“カミソリ後藤田”までもが認めた上田は、激情型の知将だった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。