日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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1980年代のパ・リーグは西武の黄金期だったがそこに割って入ったのが上田阪急だ。84年(昭59)は2位ロッテに8・5差をつけ6年ぶりのリーグ優勝を遂げた。

前年7月1日付の人事異動で阪急電鉄から球団に出向したのは、現在、阪急電鉄常務取締役で、宝塚歌劇団理事長の小川友次だった。広報担当として上田を支えた。

「球団に初出勤した日に上田さんから『君が小川くんか、待ってたよ』と声を掛けられて感激しました。勝負にこだわる監督で、選手をうまく乗せて、戦い方を熟知していた。上田さんの情熱は経営にも通じるものと思いますね」

優勝した年は、今井雄太郎が最多勝、最優秀防御率、佐藤義則が最多奪三振、ブーマー・ウェルズが3冠王、藤田浩雅が新人王、投打にタイトルホルダーがめじろ押しだった。

小川は信念を貫く上田に“リーダー”の在り方をみる。5月9日の日本ハム戦(後楽園)の8回1死、来日2年目のバンプ・ウィルス内野手がベンチの「待て」のサインを無視して二ゴロを放った。

ベンチの上田は激高した。隣にいた小川は「バンプと監督が激しく言い合った」と説明。通訳はキューバ出身のロベルト・バルボンだった。元大リーガーが「2ボールからサインがでるのは米国ではあり得ない」といった主張を頑として受け入れなかった。

試合後、上田は宿舎の品川プリンスホテルで球団社長の岡田栄、取締役の矢形勝洋らフロント陣と話し合った。怒りが収まらない上田は「おれをとるかバンプをとるか」とクビをかけた。

「上田監督はバンプのファーム落ちを激しく訴えました。球団としては高額な投資でしたが、監督は『これでは指揮をとれない』といって譲らない。それも泣きながら怒ってる。勝負師としての執念はすごいなと思いました。そして『あしたは球場に行かん』と言い出すんですから、現場は慌てましたよ」

翌10日の日本ハム戦はベンチ入りせず、ヘッドコーチの梶本隆夫が代行。11日付の日刊スポーツはバンプ事件を「上田監督 職場放棄」と報じた。オーナー代行の山口興一が緊急上京し、東京・大手町のパレスホテルで球団幹部と協議。その席から上田に電話で説得を試みた。

大リーグでレギュラーだったバンプは期待外れで夏場に帰国し、実績のなかったブーマーが活躍したのは皮肉だった。小川が「バンプの出来事からチームがまとまっていった」と語ったようにリーダーの気迫に満ちた姿勢がチームの戦いに乗り移った。

【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。

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