かつて阪神に在籍した選手の現在を追う「あの猛虎は今」。第1回は1994年(平6)オフにオリックスからFA移籍した山沖之彦さん(58)です。原因不明の右肩痛に悩まされ、阪神では1軍登板なしで現役を終えましたが、現在は神戸・三宮でバーを経営。野球好きのお客さんに囲まれ、充実した第2の人生を送っています。【取材・構成=高垣誠】

◇ ◇ ◇ ◇

神戸・三宮。生田神社そばのビルの地階に、山沖さんの店「BAKU」はある。カウンター数席とソファ席という小さな店だが、壁には現役時代のユニホームが掲げてあり、有名選手のサインも書かれている。野球好きにはたまらない空間だ。山沖さんは月~土の夜、お客さんの相手をしている。宝塚歌劇団・宙(そら)組で活躍する長女・芹香斗亜のファンも訪れる。

山沖さん といっても、水割りやお湯割り作ったりするくらいですけどね。同年代や自分より年上のお客さんも多いですよ。ここはなにをやっても大丈夫。ソファで寝てたら(お客さんが)起こしてくれるし(笑い)、居場所というか。貴重な場所? そうですね。

現役引退後、野球解説者やNTT西日本で臨時コーチをしていたが、友人2人に「一緒にやらないか」と声をかけられたのが店を始めたきっかけだ。

山沖さん ちょうどそのころは少し時間ができたときで、家に1人で居てもすることがない。そんなときは店にいたほうがいいじゃないですか。店がなかったら1人でイライラして大変だったと思いますよ。

当初は友人との共同経営だったが、今は山沖さんが単独で経営。店を切り盛りする一方、野球解説のほか、週に数回、三菱重工神戸で臨時コーチもしている。

現役時代は、阪急のエースとして活躍した。86年にヒジを故障したが、オフに一から鍛え直して翌年、19勝し最多勝を獲得した。

山沖さん スライダーのキレが戻ったんですよ。タテのスライダーが横に滑るようになって…投手ってこれはイケると思うと、自信になるんですよね。

そして94年オフ、FA宣言してヤクルトとの争奪戦の末に阪神に移籍する。だが、95年春のキャンプから右肩の痛みに悩まされ続け、結局阪神では1度も1軍マウンドを踏むことなく同年オフに戦力外となった。

山沖さん 春のキャンプでブルペンで投げていたら、スコーンと右肩が抜けたんです。しばらくすると治まるけど、また抜ける。そのうち痛みになって、その怖さで投げられなくなった。ヒジの故障はあったけど肩は初めてだったから。プロで14年やったうち、実働は13年。最後の1年が実働なしになってしまったのは今でも悔しいですね。

この年の1月、阪神・淡路大震災が起こった。山沖さんは自主トレ場所を探し、加古川へ行って浜辺で走り、1人でボールを投げるなどしていた。ある日、神戸市内の学校のグラウンドを借りて走っていると、やってきた給水車の前に子どもたちが並んでいた。自分は走って汗をかき、その洗濯もある。一方では飲み水にも困っている。「これは野球をやってちゃダメだ」と思い、以後は自主トレをやめたという。十分なトレーニングができないままキャンプイン。震災が山沖さんに練習をやめさせ、故障につながった一面もあるかもしれない。

アマでの指導経験はあるが、プロではコーチ歴がない。もしプロのコーチならどう指導するだろうか。

山沖さん 体の大きな選手の悩みは自分たちしか分からない。言われたことは分かっていても、そのとおりに動けなかったりね。そんな選手の助けにはなれるかもしれませんね。

店では、テレビ中継を見ながら厳しい言葉を飛ばす阪神ファンをなだめる役だという。

山沖さん 野球の話もしますけど、まあ世間話ですよ。それにしても、阪神ファンはベテランにキツいですね(笑い)。

そんな〝脱力〟した笑顔で、今日も山沖さんは店に立つ。

◆山沖之彦(やまおき・ゆきひこ)1959年(昭34)7月26日生まれ、高知県出身。中村高では77年センバツに12人で出場し準優勝。〝二十四の瞳〟と呼ばれた。専大を経て81年ドラフト1位で阪急(現オリックス)入団。84年最優秀救援投手、87年最多勝のタイトルを獲得するなどエースとして活躍。94年オフにFA権を行使し阪神に移籍、95年に引退。現役時代は191センチ、90キロ。通算成績は327試合112勝101敗24セーブ、防御率3・92。