相撲担当を離れて1年半になるが、忘れられない言葉がある。「歩くっていう字は『少し止まる』って書くんだよね。この先、また歩いていけるように、進んでいけるように、今は少し止まっているだけと信じたいんだ」。こう漏らしていたのは、今月11日に現役引退、年寄桐山を襲名した元前頭の旭日松(31=友綱)だ。話していたのは2年前。負け越しが続き、関取復帰が毎場所のように遠ざかっていた幕下の時だった。

その日は別の関取の取材で、友綱部屋の朝稽古取材に行っていた。当初の目的だった力士に話を聞き終えると、つかつかと寄ってきて隣に腰を下ろし、冒頭のように話し始めた。さらに「つらいよ…。嫁も子どももいるのに、稼ぎがない。どうやって家族を食わせていけばいいんだよ」と続けた。

やんちゃな顔立ちそのままに、勝ち気な性格。土俵では相手をにらみつけたり、大量に塩をまいて観衆を沸かせたり、175センチと小柄な部類の身長を感じさせない立ち居振る舞いが常だった。それが一転、他に取材に来ていた記者はおらず、他の力士もすでに土俵近くにいなかったこともあってか、初めて弱気な顔を見せた。

実は関取になる前、現友綱親方の元関脇旭天鵬の付け人を務めていた、当時の大島部屋の若い衆のころから、取材というほどでなくても、よく雑談をしていた。11年8月には、徳島県内での当時の大島部屋と宮城野部屋の合同合宿の取材に行き、なぜか地元高校球児と野球で対決。旭日松は上半身裸でヘッドスライディングするなど、どんな時も盛り上げ役を買って出ていた。

ただ、ある時、酒の勢いもあってか「お前に、7勝7敗で迎える千秋楽前の気持ちが分かんのか! 夜も眠れないんだぞ!」と、かみつかれたことがあった。表向きは気性が激しいが、実は繊細な内面の持ち主だった。だから「歩」の話も、不思議と驚きはなかった。

最後に十両として土俵を務めた17年夏場所からの4年間には、大島部屋時代からの弟弟子、旭大星の付け人も務めたこともあった。屈辱とは思わず「オレが対戦したことのある力士は、特徴とか、どこに気を付けた方がいいとアドバイスしたんだよ」と、得意げに話していた。18年夏場所では、新入幕の旭大星を10勝5敗で敢闘賞に導いた。名参謀ぶりを発揮し、後進を指導する親方としての適性を見せていた。

思えば旭天鵬の付け人を務めていたころから、若い衆ながら支度部屋では常に眉間にしわを寄せ、腕組みするスタイルは変わっていない。「口うるさいやつ」と、特に後輩からは思われたかもしれない。ただ規律を重んじる相撲界において、今は少なくなった、礼儀作法などを口に出して注意できる“目の上のたんこぶ”の役割を担える貴重な存在でもある。

レスリングの全国中学王者から、相撲経験がないまま、たたき上げで育った。自身と同様に174センチと小柄で「ピラニア」と呼ばれた、当時の大島親方(元大関旭国)から厳しく指導された。通算453勝453敗31休。自らが大量にまいた塩に足を滑らせ、敗れた取組もあった。目じりを下げる愛嬌(あいきょう)のある笑い方で苦笑いされると、どこか憎めない。旭天鵬や横綱白鵬からは「広太(こうた)」と、愛着を持って呼ばれ、かわいがられた。

4年間、関取に復帰することはかなわなかった。だが少し止まっている間に、弱みを見せられるようになったのは、人として着実に、1歩ずつ前に進んでいた証明。元横綱や元大関、元三役の親方衆では気付かない、苦悩や挫折を知っているのは、指導者として貴重な経験だ。16年余りの土俵人生よりも長い、指導者としての活躍に今後は期待したい。【高田文太】