往年のスター女優、岸恵子(84)が8月9日から、全国19カ所でスペシャル・トークショーを開催することになり、話を聞いた。

 映画「君の名は」の3部作が空前のヒットとなったのは60年以上前になる。劇中のストールの巻き方は役名と合わせて「真知子巻き」として大流行した。

 3年前に発表された「オールタイム・ベスト日本映画女優」では7位にランクイン。文字通りのレジェンドであり、トークショーでは女優として、女性として波乱の半生が語られるはずだ。インタビューでは生き方を決めた「12歳のあの日」のことも克明に語った。


 岸 本当はライフワークとも言える(一人芝居の)「わりなき恋」を続けたかったんです。でも、早変わりはあるし、ハイヒールでしょ。水飲む暇もない。だんだんきつくなってきた。それでトークショーに、と。「超」高齢者ですからね(笑い)。いろいろ見聞きしてきて、若い人たちに伝えたいこともあるから。日本人としては、私は特殊な人生を送ってきたと思いますから。


 「君の名は」の2年後の56年、日仏合作映画「忘れえぬ慕情」への出演をきっかけにフランスのイヴ・シャンピ監督と結婚。以後、パリを拠点に日仏を行き来しながら女優を続けた。


 岸 アニメの「君の名は。」は正直見ていないのですが(笑い)、私が出た「君の名は」では、自分で言うのも何ですけど、私は怪物みたいなスターになってしまったんですね。もう、ホントに怪物ですよ(笑い)。苦労もしましたし、いろいろ有ること無いこと芸能記事に書かれたんですね。それはもう日本が嫌いになるほど。日本が特殊なところという思いにとらわれて、その思いから抜け出すのはたいへんだった。日本人とヨーロッパの人たち、それぞれのいいところと悪いところが冷静に見られるようになるまでにはずいぶん時間がかかりました。日本人ってホントに1人1人はものすごくいい人ですよ。ヨーロッパを旅行したりすると、どうしてって思う状況で、すられた、盗られた、だまされたってことになる。実は私自身がそうだった。そんな目に遭いながらパリに育てられたと思っています。そこでたくましくなった、と。


 「いい人」のはずの日本人が起こす残酷な事件には我慢ならないようだ。


 岸 被災地から来た転校生にいじめをはたらくってどういうことなのかしら。まったく分からない。どうしてもうちょっと心を広くできないのか。困っている人に心を添わせることができないのか。自分と違う人生を歩んでいる人がいる。そこでもいろんなことが起きている。もう少し視線を高くすれば、いろんなことが見えてくるはずなのに。


 45年5月の「横浜大空襲」がその後の生き方を決めたという。


 岸 朝の9時ごろでした。よく晴れた日でした。3月の東京大空襲はよく語られるけど、横浜も酷かった。警戒警報と空襲警報があるんですけど、そのときは立て続けに鳴ったんですね。もう、空が(米軍機の)銀色でいっぱいだった。青空が銀色になった。私は12歳です。きれいだなあ、と思ったんですね。それはつかの間で、阿鼻(あび)叫喚の世界になった。山手公園の入り口の近くに住んでいたから、そこのテニスコートに逃げなさいと言われていた。母は隣の家の告別式に行っていて、そこで、赤ちゃんを頼まれた。その子を助けるために私をおっぽり出したんですね。でも、それがね、一人前になったような気がして、不思議に誇らしかったんですね。

 羽根布団をお風呂につけたのを頭にかぶせられて1人公園に向かったんです。途中、女の人が階段に座って動かない。防空頭巾が燃えているんです。逃げなきゃだめですよ、と揺すったらそのまま倒れてきた。もう死体になっていた。下敷きになって動けなくなっていたら、後から来た人が「子どもが何やっている!」と助け起こしてくれた。引きずられるように防空壕(ごう)に入れられたんです。急ごしらえの壕で、見るからに危なかった。みんなに引き留められたけど、私は公園に逃げ出した。

 地面が燃えていて、焼夷(しょうい)弾の匂いがするんです。とにかく防空壕にいたら死ぬと思っていて、暗いところで死ぬのは嫌だから、せめて明るいところで死のうと公園の角にあった木に登って-余計なことですけど木登りはうまかったんです-木の上に上がったとたんに、戦闘機が低空飛行で飛んできて、パイロットの顔が見えたんですね。思わず身をすくめました。私には当たらなかったけど、機銃掃射で人を殺しながら飛んでいきました。

 そのとき、自分の家が直撃弾で燃えているのが見えたんですね。ああ、もう今日で子どもはやめよう、と思ったのがそのときです。本当にやめられたかは分からないですけど、あの体験はすごかったですね。それから2週間くらい晴れた日が続いたのに太陽は真っ黒でした。で、すすぼけたもやが立ちこめて、がれきの下から人間の肉が燃える匂いが立ち上っていた。あの匂いはまだ覚えています。

 大人の言うことを聞いていたら私、死んでいましたから。あの防空壕に入った子どもたちは、ほぼ全員亡くなりましたから。爆風と土砂崩れで。だから、これからは自分の思った通りに生きようと思いました。あの日が私の生き方を決めたんですね。


 12歳の記憶を思い起こすと、少女のような表情になった。


 岸 1年前までは、年を取ったとか、高齢者の仲間に入ったとかそういう認識がまったくなかったんですね。それが、紹介されてもお名前を聞きながら忘れたり、ああ私も人並みに年を取ったな、と思うようになりました。お医者さんに言わせると「道具立て」が丈夫なようなんですけどね。でも、「無理をしていると、ある日ポキッといっちゃいますよ」って。

 少し前、舞台公演中に不整脈が出て、病院に行ったら「毎朝、何を食べていますか?」って。ここ数十年、コーヒーをマグカップに3杯飲むだけだったんですね。そう言ったら先生がビックリして、「よく今まで生きていますね」って。すごく体に悪いんですって。で、1年前からバナナを1本とか、ヨーグルトとか、トーストを半分食べるようにしたら、これがまた、すごく元気になったんです。お医者さんの言うことは良く聞くべきですね。

 日本の実家は私の年くらい古い。いろいろ故障するんです。屋根瓦が落っこったり、垣根が倒れたり。けっこう広いから、いったん忘れ物をすると取りに戻るのがたいへん。そこを行ったり、来たりするから脚が丈夫になる。パリの方の家も400年たっているから、屋根や床が老朽化してたいへんな問題になっているんですね。そんなとこに住んでいるから老けている暇がないのかもしれません。何でも手に届くところにある便利な家に住んだらいっぺんにダメになる気がします。むしろ苦労が私を支えてくれているんだと思う。


 最近は舞台中心の活動になった。


 岸 映画とかドラマのお話もいただきますが、私の年になるとおばあさんとか、ひいひいおばあさんとかの役ばかりで。なんか書き割りのそばにかすんでいるような役なんですよ。それは申し訳ないけど、やりたくない、のです。舞台は、実は私慣れていないんです。ドキドキして、幕が開くのが怖いくらいなんですけど、やってみたら面白い。決まり事も分かっていない。どこにライトが当たっているとか…演出家は「そこがいい」って言ってくれるんですけどね。


 映画全盛期には苦い思い出の方が多いという。


 岸 大監督がいらしたんですよ。市川崑先生とか、小津安二郎さんとか、豊田四郎監督。3人にこてんぱんにやられました。「下手だ!」って。でも、つらい思いをして自分ではダメだと思った作品ほど、結果的にはいい映画になったんですね。市川先生だったら「おとうと」、豊田監督だったら「雪国」。小津さんにも、すごく叱られました。私のために「東京暮色」を書いてくださったんですけど、結婚のためにパリに行っちゃって、できなくなったり。

 今ね、テレビドラマなんかを見ると、あまりにも皆さん、若い方たちがうまいんですよ。かっこはいいし、きれいだし、すごく自然な芝居をなさっている。でも、私はつまらないと思う。興味が持てない。つまり、あんまり自然で、それなら日常にあるじゃないって。ウソがない。洗練されたウソがないからつまらなく感じちゃう。

 小津さんのセリフの言わせ方なんてホントに不自然だった。小津さんは私のことを「新しい子だ。自分流のセリフを平気で言う」と言ってくださったらしいんですけどね。

 小津さんの作品の中でホントは変なんだけど、不思議と普通に聞こえたのが笠智衆さんと東山千栄子さんでした。「あっ、そ」というだけで笠智衆さんは素晴らしかったし。ウソっぽさが良かったんですね。日常っぽく見えるけど、日常じゃこんなこと言わないよっていう。ちょっと不自然なセリフがあの頃の映画を支えていたと思うんですね。

 今はあんまりみなさんうまくて、ちょっとつまらないと思う。ひんしゅく買うのかな、こんなこと言うと(笑い)


 きっぱりとした物言いが気持ち良かった。この人だから嫌みにならない。横浜大空襲の体験談の克明さには文筆家としての一面をのぞかせた。【相原斎】