2014年(平26)11月10日に83歳で亡くなった俳優高倉健さんのパートナー、小田貴月(おだ・たか)さんが出版した著書「高倉健、最後の季節(とき)。」(文藝春秋)が話題だ。7カ月に及ぶ闘病、そして小田さんのこれからについて聞いてみた。【小谷野俊哉】

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高倉さんは14年2月に体調を崩し、4月に入院。悪性リンパ腫と診断された。

「多くの治療法から適応するものを選んで、7月には寛解となって退院できた。だから自信を持って、仕事ができると思っていました」

退院の際、高倉さんと一緒に公園を歩いた。屋外で一緒に歩いたのは、最初で最後だった。

「正確にはサポートの方がいたので、全く2人きりとは違うんです。高倉は帽子をかぶっていて、気付かれませんでした」

96年に高倉さんと香港で知り合い、20年近く表に出ることなくサポートに徹していた。

「大変でもなかったです。それまで仕事ばかりしていたので、こういうのもあるのかなという感じ。私には何でも言って大丈夫と思ってくれたんじゃないかな、と」

仕事復帰がかなわず、11月に入って最後の入院。高倉さんは痛みに耐えながら、うつらうつらとしていたという。

「ずっと映画の軌跡をたどって話していました。大阪、北海道、飛行機に乗るんだとか。だんだん呼吸がつらくなって、聞き取れる言葉と聞き取れない言葉が混じってきた。最後に聞き取れたのが『慌てるな、あ・わ・て…る……な……』でした」

14年11月10日未明、希代の名優が逝った。

「最後まで高倉健でした。高倉健を生きた人生でした」。

1週間たって、死を公表。13年に高倉さんの養女となっていた、小田さんの存在も初めて世に出た。

「いろいろな声があって、気にならないと言えばうそですけど。やることが山ほどあった。高倉の後処理に関して、絶対に恥をかかせてはいけない。それが、私の役目だと思っていたので」

養子は、1度結婚生活に失敗した高倉さんが、自分と小田さんの将来を考えて出した結論だ。親族でなければ入院、見舞いにも支障をきたす。

「ルールですからね。おひとり様が女性も男性も増えてますから、今に合わせたルール作りを見直す時期なのかなと思いますね」

高倉さんは生前に「僕がいなくなれば寂しくなるよ」と言葉を残していた。9年たっても、小田さんは「寂しいです」と言う。それでも1人で生きて行く。

「あんまり考えたくないというのが正直なところ。でも、おひとり様になった私が、何ができるかなと考えるんです。病に向き合った私の実体験。高齢化社会で、いい形で寿命を全うするということに関してです」

高倉さんの最期をみとった経験から、伝えていきたい思いがある。

「クオリティー・オブ・デス。死の質というか、どういう風に死にたいかということですよね。治療もですけど、亡くなり方。今まで死に対して縁起が悪いとなっていましたけど、縁起の問題じゃなく必ず死ぬ。私も死にますから、その時のことを考えていかなきゃいけない。そういう時代になってきて、いいんじゃないかと思っています」

出会った時の高倉さんは、1日1食だったという。

「毎日、工夫をして3食食べてもらうようにしました。特別なものを食べていたわけではなくて、普通にスーパーで売っている食材で工夫をしていました。それを伝えていくのもいいですね」

高倉さんと出会う前は、テレビ番組のディレクター、プロデューサーを務めていた。

「高倉を使って、作品を作っていた方は、いっぱいおられる。だから、私は振り返らない方がいいんじゃないかと思っています。今の私に何ができるか、それをやることが大事なんです。また勉強し始めて、今一番興味があるのが、農産物収穫。果樹園にちょっと通っていて、桃とリンゴとプルーンを作ってるんです」

高倉健さんの思いを受け継いで、生きて行く。

◆小田貴月(おだ・たか) 1964年(昭39)、東京都生まれ。高倉プロモーション代表取締役。女優としてTBS「水戸黄門」などに出演。海外のホテルを紹介する番組のディレクター、プロデューサー、ジャーナリストとして活躍。96年に香港で高倉さんと出会う。13年、高倉さんの養女に。19年、著書「高倉健、その愛。」を出版。