さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第21弾は中西太さん(84)が登場します。

 中西さんは、高松一(香川)で甲子園に3度出場しました。のちに西鉄ライオンズ(現西武)で通算244本塁打を放った豪快な打撃は、高校時代から有名でした。

 打撃練習から規格外の打球を飛ばしていたスラッガーについた異名は「怪童」でした。

 幼い頃には戦争のつらさも知る中西さんの高校時代を、全10回の連載で振り返ります。

 10月23日から11月1日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

取材後記

 「怪童」の異名をとった中西太さんには、この連載の取材で何度もお目にかかった。閑静な都内の自宅では、時にはパスタ、また違う日には、すし、中華料理をごちそうになりながらのインタビューだった。

 いつも門扉で出迎えをいただいたのは、中西さんの奥様で、名将と称された三原脩氏の長女の敏子夫人だ。当方がいうのも生意気だが、非常に上品な方で、いつも手料理をふるまっていただき恐縮したものだ。

 また時には、中西さんと神宮外苑で待ち合わせると、お孫さんたちと合流してランチをしながら取材する日もあった。

 わたしが駆け出しの記者だった頃から、かれこれ30年近く、中西さんの野球論に触れてきた。しかし、今回の取材で、ここまで赤裸々に戦争体験を振り返ったのは、これが初めてのことだった。

 わたしは「戦争を知らない子供たち」だ。阪神淡路大震災では被害を受けたし、ニューヨークのテロ事件が起きる直前まで現地に滞在した。ただ、危険にはさらされたが、戦争は知らない。

 本来は、プロの記者として、もっと深く掘り下げながら、臨場感に富んで、真に触れたかった。それがかなわず、戦火をくぐり抜けてきた中西さんにはお叱りを受けることもあった。

 だが、最後には、必ず中西さんは「君がこういう時代にも野球をしていたことを後輩に引き継いでほしい」と激励してくれる。自らの勉強不足もすくわれる思いだった。

 悲惨な話をうかがっていると、我々が生を受けた世代の幸せを感じるとともに、一方で日本は「平和ボケ」していないか? といった疑問も湧いてくる。

 中西さんには、依頼されたサイン色紙に添える座右の銘がある。『何苦楚(なにくそ』--。人生は何事も苦しいときにこそ、自分の礎を作るのだという。

 戦中戦後を生き抜き、野球界を支えてきた先人の生きざまに、身が引き締まる取材だった。【寺尾博和】