プレーバック日刊スポーツ! 過去の7月17日付紙面を振り返ります。1992年の3面(東京版)は広島北別府学投手の200勝達成でした。

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<中日1-5広島>◇1992年7月16日◇ナゴヤ

 広島北別府学投手(35)が、史上22人目の200勝を達成した。

 16日の対中日15回戦(ナゴヤ)で先発し、メモリアル勝利をセ・リーグ10勝一番乗りで飾った。プロ17年目、通算480試合目の登板でつかんだ栄光は、広島球団史上初の快挙でもあった。次の目標はもちろんチームのV2、そして自らの最多勝だ。

 ベンチに戻ってくるナイン一人ひとりに言葉をかけた。「ありがとう」。北別府は祝福のあらしの中で頭を下げた。「最後は大野さんが抑えてくれた。ひとりでできた記録じゃない。監督ほかチームメートみんなに感謝してます」。17年、480試合目の登板で、ついに広島球団史上初の200勝を達成した。村田兆治氏(元ロッテ、本紙評論家)以来3年ぶり22人目。今世紀最後とも思われる偉業だ。

 「前夜寝たのは(午後)12時過ぎ。起きたのは(午前)10時半だけど、途中何度か目が覚めた。そんな時はいつも内容がいいので、いけるかな、と思った」。

 神がかりか、2回無死一、二塁では中村のバントが小飛球となり、三重殺。ブラウンの先制弾、6回には集中打で勝ち越し。みんながエースとして支えてきたベテランに大きな白星を贈った。

 山本監督から名球会の紺のブレザーを着せられた。登板した試合で104本ものアーチをかけて援護してくれた大先輩。山本監督からかけられた祝福の言葉が心に染みる。そんな歴代3位の通算536本塁打を放った山本監督を驚かせたのは弱冠20歳の時だった。

 1978年(昭53)6月3日の対巨人戦(後楽園)。5回1死満塁のピンチに立たされ、迎えた打者が世界の王貞治氏。カウントは1-3。センターを守っていた山本監督は「ストレートを投げたら打たれる」と直感した。そこで北別府はカーブを投じた。王氏は二塁へフライを打ち上げた。「あの時、なんて度胸のいい若者なんだと感心した」と山本監督は述懐する。王氏を封じて、プロ初完封を飾った北別府は、そのあこがれの人に学んだことがある。

 新人だった北別府が初めて王氏と向かい合った時、完全に威圧されていた。「目を見てビックリした。まさにヘビににらまれたカエル。内角を狙っているのに、吸い寄せられるように真ん中へ球が入っていく。他の打者の時はそんなことがないのに、王さんの時だけは……」。

 少年時代から負けん気が強かった。「年を取り成績が悪くなると人間はまるくなるもの。でも向こう意気の強い自分の性格を変えたら終わりだと思った。だから若いころ以上に表に出した」。ツッパリ続けた17年。まだまだ血気盛んな闘志は失っていない。