【中庭健介〈中〉】「憧れ強すぎた」本田武史と「ほんとにいい人」高橋大輔の存在

日刊スポーツ・プレミアムでは、毎週月曜日にフィギュアスケーターのルーツや支える人の信念に迫る「氷現者」をお届けしています。

シリーズ第11弾は指導者編として、中庭健介(41)の来歴を辿ります。2011年に現役引退後、福岡を拠点に指導者としての道を歩み始め、2021年からは千葉県船橋市で「MFアカデミー」のヘッドコーチを務めています。2022-23年シーズンは、渡辺倫果(20=TOKIOインカラミ/法政大)や中井亜美(15=TOKIOインカラミ)らが活躍を見せ、中庭コーチの指導にも注目が集まりました。

全3回の「中編」では、29歳まで競技を続けた理由と、指導者として歩み始めた当初の苦悩を描きます。(敬称略)

フィギュア

   

最後の出場となった10年の全日本選手権。初出場した99年から、12年連続で出場するも優勝は飾れず

最後の出場となった10年の全日本選手権。初出場した99年から、12年連続で出場するも優勝は飾れず

追い越そうと思う存在ではなかった本田武史 

9→5→4→3→6→2→3→5→4→6→12→9。

中庭健介は18歳で初出場した1999年から、12年連続で全日本選手権の舞台に立った。矢印で結んだ数字の羅列は、その順位の推移を表している。

表彰台に3度も上った。銀メダルもつかんだ。でも、1位にはなれなかった。

2人のスケーターが、目の前にいた。

その1人が本田武史だった。

「本田先生という偉大な存在がいらっしゃって。僕はいい意味でも、悪い意味でも、憧れが強すぎたのかなと思います。どうにか倒したいという思いは弱かったです」

中学2年の頃。全日本ジュニアで別格のトリプルアクセル(3回転半)を跳んでいた1学年上の先輩は、常にスケート界を引っ張っていた。

全日本選手権では、出場8大会で6度の優勝。8年連続で出場した世界選手権では、2002年から2年連続で銅メダルも手にしていた。

「実は本田先生がカナダでやられていたので、自分もそこへ行ったという理由もあります」

シニア2年目となるシーズンから、振付のためにカナダ・トロントへ渡るようになったのは、先輩に近づきたいという思いもあった。

「本田先生は高校生の頃には、トップ中のトップだったんですけど、最初は話しかけるのも、畏れ多かったですが、少しずつ仲良くさせていただいて、ご飯に連れて行ってくださったりもしましたね」

偉大な背中を必死に追いかけた。そのおかげで、2002年の全日本選手権では3位に食い込み、優勝した本田と一緒に表彰台にも立った。

ただ、追い越そうという覚悟は、なかなか生まれなかった。

そうしているうちに、もう1人のスケーターが目の前に現れた。

高橋大輔だった。

04年NHK杯、出番を前に胸に手を当てて精神統一を図る

04年NHK杯、出番を前に胸に手を当てて精神統一を図る

本田に代わって台頭してきた高橋、織田

4歳年下の高橋は、2002年から本格的にシニアに参戦してきた。

当時はまだジャンプが荒削りだったものの、その才能には目を見張るものがあった。

「大ちゃんは早くからシニアに来ていたので、被っている時期は意外と長いんです。初めは勝ったり、負けたりを繰り返して、2番手、3番手争いをするシーズンが続きました」

ちょうどその頃、本田は足のケガなどの影響により、2003年シーズンからいくつかの大会への出場を取りやめるようになっていた。

時代の変わり目を迎えていた。そこで駆け上がったのは、高橋や織田信成らの年下選手たちだった。

「若い力に押されて、僕は勝ちきれませんでした」

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岐阜県不破郡垂井町出身。2022年4月入社。同年夏の高校野球取材では西東京を担当。同年10月からスポーツ部(野球以外の担当)所属。
中学時代は軟式野球部で“ショート”を守ったが、高校では演劇部という異色の経歴。大学時代に結成したカーリングチームでは“セカンド”を務めるも、ドローショットに難がある。