2月上旬、フットゴルファーとして活動する柴田晋太朗さんは、東京都内にある病院のベッドにいた。肺に転移した腫瘍を切除する手術を受けた。神奈川・日大藤沢高2年だった2016年夏に右上腕部骨肉腫が判明し、それ以来3年半に及ぶがんとの闘い。今回で実に6度目となる手術である。

1月12日に地元の厚木市で成人式を迎えた。大学生活の傍ら、昨年から始めたフットゴルフでめきめきと頭角を現し、ワールドカップ(W杯)日本大会(9月23日~10月4日、栃木県さくら市セブンハンドレッドクラブ)の日本代表メンバー入りという目標を掲げる2020年。出ばなをくじかれた格好だが、柴田さんの表情は明るく、いつものようなポジティブな言葉が次々と飛び出す。

「余裕っすよ。自分で歩いて手術室に入ったし、手術もすぐ終わりました。もうピンピンしてます。今年はやることがいっぱいありますからね」

手術後にアップしたツイッターにも、こう記されていた。「ご報告が遅れましたが、無事授業が終わりました… 今回も同じ内容なので正直学ぶものはありませんでした笑」。

どんな壁にも飄々(ひょうひょう)と立ち向かい、ユーモアを交えて乗り越えていく。どこか、世間の耳目を集め続けるサッカー元日本代表選手とも重なる。言葉通り、手術から4日目には退院し、大学へ通うなど日常生活に戻った。

柴田晋太朗さん(右)と森一哉さん
柴田晋太朗さん(右)と森一哉さん

■サッカースクールの指導者

手術から3週間後、柴田さんは神奈川県茅ケ崎市にあるフットサルコートに立っていた。昨年までJ1名古屋グランパスでヘッドコーチを務めた森一哉さん(現在は関東1部リーグの東京ユナイテッドFC監督)が新設した「MORI FOOTBALL ACADEMY」。超攻撃的な「風間八宏スタイル」の右腕としても知られる森さんが、止める、蹴る、運ぶといったプロ仕様の個人技術や戦術を、余すことなく小学生に伝える独特なサッカースクールだ。その茅ケ崎校のコーチとして迎えられ、再びサッカーの舞台に舞い戻った。

柴田さんは小学生に交じりボールを蹴った。楽しかった昔の感覚がよみがえる。同時に昔の自分の姿を小学生たちに重ねたのか、自然と笑みがこぼれた。

「プレースタイルが自分のようだなとか、昔のオレよりうまいんじゃないのとか。自分のバックグラウンドを振り返りながら、サッカーに携われるという喜びがあります。1つの人生経験としてもすごく大事なことだと思います」

骨肉腫という大病を患ったことで、プロサッカー選手になるという夢はついえた。だが、後に続く者たちへサッカーを伝えるというバトンを手にした喜びが、言葉の端々にあふれた。

柴田さんを自らのスクールコーチに誘った森さんが言う。「スクールの立ち上げを考えた時に、頭に浮かんだのは晋太朗だった。気心も知れて“価値観も同じ”なので」。親子ほど年は違うが、そう話す関係性に興味を抱いた。

出会いは7年前までさかのぼる。中学1年でサッカーの神奈川県トレセンの練習会に参加した。その時の担当コーチが、川崎フロンターレのジュニアユースを指導していた森さんだった。以来、交流が続く。

森さんは四国を代表する強豪・徳島市立高時代、全日本ユースとインターハイで2度の日本一に輝いた名MFだった。速いテンポで全方位にパスを出し、流動性ある動きと優れた戦術眼で中盤を制圧する。その姿を思い出すと、まるでバルセロナで活躍したシャビのようだった。

日本高校選抜にも名を連ね、慶大を経てJFL時代の川崎Fに所属。その後は指導者としてのキャリアを積み上げてきた。人当たりがよく、いつも朗らか。そんな森さんは、苦境に陥った柴田さんを温かく見守り、支えてきた。

名古屋コーチ時代の森さん(左)とパス練習をする柴田さん
名古屋コーチ時代の森さん(左)とパス練習をする柴田さん

■闘病中にマンツーマン指導

「晋太朗が中学3年になる前、僕がフロンターレのトップチームのコーチになることに伴って、トレセンから外れることになりました。最終日の帰り際、彼がいろいろと質問をしてきました。結構長い時間、話をしたのを鮮明に覚えています。そこから連絡を取り合うようになり、高校はここに行くとか、こういう感じのプレーをしているとか。いろんな対応も含め、しっかりしている子だなという印象はあったし、サッカーへの考え方も合う。こういった形で続いてきました」

柴田さんは日大藤沢高へ進み、2年時には神奈川県U-17高校選抜の主将を務めるまでになったが、その後に病気が判明。学校にも通えなくなり、生活は一変した。遠く離れた場所に居ながら、森さんは考えた。

「(病気は)びっくりして、最初は信じられなくて。僕に何ができるんだろうって思って。ただ彼自身がプロになることをあきらめてなかったので、闘病生活をしながらも可能な範囲で(サッカーの)マンツーマン指導をしました」

例えば遠征で湘南に来れば、一緒にボールを蹴る機会をつくった。また、柴田さんが森さんのいる名古屋を訪れると、グランパスの練習場に迎え入れ、シュート練習に付き合った。そんな練習の成果が出たのは、柴田さんが高校3年の9月。1年に及ぶ闘病を経て迎えた復帰戦、鮮やかなミドルシュートで2得点を挙げてみせ、周囲を驚かせた。その時も森さんはそっとグラウンドに足を運び、祈るような思いで見つめていた。そういう歳月を重ね、信頼関係は深まった。

「みんなそうだと思いますが、大人と子供の関係から始まって、最後は大人と大人になる。自然と年齢を重なるに従い関係は変わってくると思います。今回も晋太朗が良ければ、一緒にやりたいなと思って声をかけました。昔はこうやって一緒にやるなんてイメージできませんでしたけど、彼がフットゴルフで日本代表を目指す一方で、サッカーに対する気持ちを持っていないわけじゃない。彼自身、いろいろとやっていく中で指導する立場になることがあるかもしれませんし、僕と同じような考えであれば(子供たちに)伝えていければいいなと思いました」

サッカースクールで指導する森さん(中央)と柴田さん
サッカースクールで指導する森さん(中央)と柴田さん

■一生に一度の出会いに誠意

サッカーがつなげた縁、そして人と人の絆について考える。柴田さんが言う。

「トレーニングしている時は一生徒、一指導者として向き合っていたんですけど、森さんがフロンターレの事情でトレセンを離れなければいけないとなった時に。本当にパッとこの人とつながっていたいと思ったんですね。教え方だったり、人間性からして。今後も自分が苦しんでいる時に助けてもらいたいな、って思いました。だから自然と体が動いて、最後に声をかけに行ったんです」

何が通じ合ったのか。たぶん、目線の高さなのだと思う。上から命令されるでもなく、下からお願いされるでもなく、互いの平等性だったり、誠実さが伝わる。それは同じ目線の高さ、つまり「相手の目線に立つ」ということだったのだろう。

一期一会(いちごいちえ)。

ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。よく知られる四字熟語だが、有名な茶道家、千利休(せんのりきゅう、1522生~91年没)の言葉とされる。「一生に一度しかない出会いと思い、相手に最善の誠意を尽くす」という心構えを説いたものだ。大人だからとか、子供だからとかいう枠にとらわれず、両者の「誠意」が呼応したのだろう。そんな関係をうらやましく思った。

病気という不安はまだ拭えない中、新成人となった柴田さんが今年にかける思いを口にした。

「2020年、いきなり手術スタートで始まったんですけど、今年9月に日本で開催されるフットゴルフW杯に焦点を当てつつ、こうしてスクールコーチとしてサッカーに関われることができるので、サッカーにも恩返しがしたい。やっぱり自分はサッカーで生かされてきたんだなと実感しつつ、周りへの感謝というのをあらためて確認できました。今年、自分は恩返しの年にしたいなと思っています」

フットゴルファーとして表舞台へ、一方で裏方として子供たちにサッカーという喜びを伝える。希望にあふれる2020年、柴田さんは2つの大きな目標を掲げ、しっかりとした足取りで未来へと向かっている。【佐藤隆志】(ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)