12月6日、都内で行われた「Jリーグアウォーズ」。最優秀選手賞(MVP)を受賞した川崎フロンターレFWレアンドロ・ダミアン(32)の隣に立っていたのは、同クラブのポルトガル語通訳、中山和也氏(43)だ。
クラブ在籍13年目。横浜FC通訳時代を含めた16年で、担当選手がMVPを受賞したのは初めてだった。「自分がやってきたことが報われたというより、一緒に仕事をしている仲間としてうれしかった」と振り返る。
◆コロナ禍の2シーズン 家族の来日は通訳の英断だった
レアンドロ・ダミアンが川崎Fに加わったのは19年。12年ロンドンオリンピック(五輪)得点王の元ブラジル代表は、シーズン前から注目を集めた。しかし、Jリーグ1年目は苦戦した。23試合9得点と、期待されたほどの結果は残せなかった。
シーズンオフを母国ブラジルで過ごして、心機一転臨んだ20年、世界を新型コロナウイルスが襲った。チームは1月13日~2月9日にキャンプを予定していたため、選手はそれに合わせて来日し、家族はキャンプ終了までブラジルで過ごす予定だった。しかし、中山通訳の元に知人から情報が入った。「1月末~2月頭に入国制限が出るかもしれない」。
選手の来日は2日後に迫っていた。悩んだが、話し合いの末に家族の来日を前倒しすることに決めた。急いで選手と同便のチケットを手配した。「他のクラブでは、ブラジルに残って半年以上来日できなかった家族もけっこういたみたい。家族が入国できないストレスで調子を落とす選手もいたそうです」と中山通訳。川崎Fのブラジル人選手は、全員が家族とともにシーズンを送ることができた。通訳の英断だった。
選手の身の回りの世話も仕事のうち。「家の準備をしたり、子どもが発熱したら病院に連れて行ったり、区役所関係、ビザ関係の手続きもします。マネジャーみたいな感じです」という。ピッチの外でも、外国籍選手にとって通訳は大きな存在だ。
◆ポルトガル語との出会い きっかけは「キャプテン翼」
通訳になりたいと思ったことはないという。きっかけは、人気漫画「キャプテン翼」。サッカー少年でGKだった中山通訳は、「ブラジルに行ってサッカーがしたい」と夢を抱いた。それがポルトガル語との出会いだった。
中学卒業時は「漫画じゃないんだから」と家族の反対を受けて断念。高校卒業後はサッカー専門学校に入学するも物足りず、ブラジル留学の資料を取り寄せるなど、夢を実現する道を探った。「僕が人生でそんなに真剣になったことがなかったので、『それだけ本気なら』と」。家族の了承も得て、19歳でブラジルに渡った。
ただ、プロサッカー選手にはなれなかった。約1年2カ月のブラジル留学を終えて帰国すると、“神様”ジーコ氏の兄・エドゥー氏のスクールで、選手兼GKコーチ兼通訳として2年弱働いた。並行して地域リーグのクラブに所属してプレーしたが、JFL昇格を果たせず引退を決めた。「ブラジルに行くときに親と約束したのは、(一般に)大学を卒業する22歳までは好きなことやっていいよ、と。それが最後の年(00年)だったので」と、潔く現役を退いた。
◆指導者の道へ…ポルトガル語との“再会”
その後は地元岩手でアルバイトをしながら、指導者として経験を積んだ。04年には地元を離れて、当時高校2年生のFW小林悠がいた神奈川・麻布大渕野辺高へ。エドゥー氏のスクールで一緒だったコーチが「GKコーチを探している」と声をかけてくれたからだった。
2年ほどたったある日、友人から「横浜FCがポルトガル語の通訳を探しているらしい」と聞いた。ブラジル留学経験は1年ほどで、帰国後ほとんどポルトガル語を使っていなかったが、幼少期から「サッカーで仕事をしたい」という夢があった。思い切って面接を受けてみたら、合格した。06年、“中山通訳”としてのキャリアが始まった。
とはいえ、ポルトガル語から離れて久しい。ブラジルでのプレー経験があるFWカズに教えてもらったり、当時所属していたブラジル人選手の家に居候するなど努力を重ねて、少しずつポルトガル語を取り戻していった。09年からは川崎Fに活躍の場を移して、通訳人生16年目でついに「MVPの通訳」という大役を務めた。
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Jリーグアウォーズでの記者会見後、ベストイレブンを受賞して記念撮影する川崎Fの選手の中に、中山通訳の姿もあった。壇上で選手からたたえられるのは、ただ言葉を訳す存在にとどまらず、戦友と認められている何よりの証だ。
「横浜FCを契約満了になって、ある意味フロンターレに拾ってもらいました。『シルバーコレクター』時代も経験しました。通訳という役割でクラブに貢献したいとずっと思っているので、これからもブラジル人選手、日本人選手もサポートして、クラブにもっと数多くのタイトルを取ってもらいたいです」。通訳という肩書の枠にとらわれず、来季もさまざまな角度からチームを支えるつもりだ。【杉山理紗】