新型コロナウイルス感染拡大の影響で、国内外のサッカーリーグ、代表の国際試合は中断、中止を余儀なくされている。

生のサッカーの醍醐味(だいごみ)が伝えられない中、日刊スポーツでは「マイメモリーズ」と題し、歴史的な一戦から、ふとした場面に至るまで、各担当記者が立ち会った印象的な瞬間を紹介する。

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今や欧州発の情報チェックは当たり前だが、あの日は驚かされた。16年7月27日、スイス1部ヤングボーイズの公式サイト。「クボに五輪出場を見送ってもらう。決定だ」。所属クラブがリオ五輪代表FW久保裕也の派遣拒否を一方的に表明した。初戦ナイジェリア戦(8月4日)1週間前。チームも記者もブラジルにいた。その昼、日本は深夜の一報。エースだった。19歳で本場へ渡ったリオ世代の海外組1号で、最終予選では唯一全6試合に出場し最多3得点を挙げていた。

チームが把握したのは前日26日の深夜。久保は声を上げて泣いていた。スタッフへの報告の電話越しに。

アーセナル浅野、ザルツブルク南野と経由地ロンドンで合流するはずが、欧州CL予選に出るため「後日合流」に。次の連絡が「拒否」だった。負傷者続出でFWの駒不足に陥ったクラブが約束を、ほごにした。

強化責任者ビッケル氏は「クボには申し訳ないが、チームの利益を守るため」と譲らない。28日、協会幹部がサンパウロから緊急渡欧した。折衝し「条件次第で招集に協力、という段階まで差し戻した」と軟化には成功したが、この後の行動が裏目に出た。ブラジルに戻ってしまったのだ。チーム本隊のためとはいえ「クラブと全力で戦う」と覚悟を固めた久保を置いて。

幹部は「スイス滞在5時間、0泊3日」と弾丸行程で誠意を示したつもりだったが、この時は逆効果だった。「30日に再協議する。あとは電話で」と言われて従った。刺激したくなかった立場は分かるが、現地で待って最終交渉で直訴、が筋だった。久保を飛行機に押し込むまで粘れるかの勝負でもあった。案の定、クラブ側には「連れていく気概が感じられない」と淡泊に映り「派遣は確約できない」との返事。4日の初戦を諦め「7日の第2戦コロンビア戦から合流」まで譲歩したが、最後はピッケル氏が電話に出なくなった。

8月2日、招集断念。初戦の49時間前だった。春に右膝を痛めていた久保は、クラブ命令の手術を拒んで温存療法を選び、五輪に懸けていた。「万全の状態を目指していたので当然、残念な気持ち、整理のつかない部分がある」と吐露した後、選手のグループLINEから退出した。喪失感に包まれたチームは初戦を落とし、第2戦はドロー。第3戦で欧州王者スウェーデンを下す勝ち点4と意地は見せたが、1次リーグで散った。久保を2トップ、トップ下、右ウイングと試合中に動かす可変システムも幻惑の前に幻に終わった。

五輪は23歳以下でも招集に強制力がない。百も承知の協会幹部は、時には手倉森監督も連れてスイスに飛び、派遣の「約束」を取りつけていた。当時はベターでも、ベストの「サイン」まで勝ち取れなかった。犠牲と引き換えに教訓を得た協会は、東京五輪へ、海外移籍する選手の契約書に五輪出場条項を盛り込むよう促してきた。森保監督もコロナ禍がなければ今年3月に渡欧予定だったし、4年前は不在の欧州駐在が今は3人いる。それでも、オランダの名門PSVに移籍した堂安が「五輪出場を断られる可能性はゼロではない」と漏らしたように、自国開催でさえ絶対はない。1年の延期も、根回しの時間は増えたものの、新型コロナの影響で派遣を渋るクラブが出る危険性もはらむ。

リオ五輪の3カ月後-。W杯ロシア大会アジア最終予選サウジアラビア戦。A代表の先発に久保の名があった。本田圭佑から右FWの定位置を奪って。「吹っ切れましたよ、もうA代表しかないんで」。本人に笑顔が戻っても美談にはできない。ただ、パンデミックを乗り越え来夏に悲劇が繰り返されなければ、報われると信じたい。【木下淳】