本田圭佑(27)は17番目の選手だった―。中学生時代にG大阪ジュニアユースに所属しながら、走力がなく、出場機会はほとんどなかったという。並の選手だった当時を、G大阪の育成担当だった上野山信行氏(現取締役)に聞いた。

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その少年は、小さいコートでミニゲームをさせると、光るものがあった。しかし大きなサッカーコートになった途端、目立たなくなった。「技術はあるから、走れたらもっと良くなるんやけどなぁ」。当時、G大阪でアカデミー(育成)の統括をしていた上野山氏は、そう思った。まだ小6。知り合いの指導者からの推薦で、中学生に交じって、ジュニアユース(JY)の練習に参加していた。少年の名は本田圭佑といった。

「スーパーではないけど、そこそこいける。そんな印象でした。技術はある。あとは走力だな、とね」

育成には定評のあるG大阪JYに入ってからも、印象が変わることはなかった。止めて蹴る、という基本技術はさらに磨かれた。でもやはり、中学の3年間が過ぎても走れなかった。同学年には「天才」と呼ばれた家長(現大宮)がいた。今や日本のトップ下は本田が不動の存在だが、当時のチームは、絶対的に家長。本田はサイドバックや、中盤のサイドに追いやられた。それでも、試合には出られなかった。

「ガンバの評価基準は3つ。<1>が止めて蹴る。<2>が走る。<3>がパスアンドゴー。(本田は)<1>はできたけど、走れないから、<3>も走る距離が短い。試合では17番目の選手。使われない方が多かった」

1学年に15~18人の選手がいた。うち高校世代のユースに昇格できたのは、その世代は家長を含め7人。箸にも棒にも掛からなかった本田は、石川県の星稜高校に進学した。2年後、埼玉国体を視察した上野山氏は、石川県選抜に見覚えのあるいい選手を見つけた。

「体のデカイ(背番号)10番がいたんです。あまり走らないけど、キックがうまかった。プロに(声が)かかるかな、と思いましたね。(本田は)中学の頃は体が小さかったから、まさかこんなにデカくなっているとは思わなかった」

技術はあっても走れず、試合ではいつもベンチに座っていた。そんな選手が、日本を背負って立つことになろうとは、想像もできなかった。今でも上野山氏は、本田をユースに昇格させなかったことを指摘されて「見る目がないね」と言われることがある。

「すべては結果論。仮にユースに上げていたら、今の本田選手はいなかった。ユースに入っても13、14番目の選手だったでしょう。家長もいたから、試合に出られず、成長する機会が与えられなかった。もちろん反省はあります。でもACミランに行った過程の1つに、ガンバで過ごしたことも含まれている」

失敗がなければ成功もない―。G大阪JYでの挫折が、本田の成長につながったというのは、言い過ぎだろうか。【益子浩一】