長崎・国見高で監督を務め、03年度大会まで戦後最多6度の選手権Vを飾った小嶺忠敏氏(現長崎総合科学大付監督)が亡くなったことが7日、分かった。76歳だった。

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高校3冠の頃は在福スポーツ紙には「国見担当」がいて、頻繁に島原半島に足を運んだ。練習、試合を取材すると小嶺さんは「泊まっていきなさい」とくる。国見の烏兎(うと)寮によく寝泊まりさせてもらった。小嶺さんとの晩酌は楽しく勉強になり、目を盗んでは机の下でメモを取った。昨年引退した大久保嘉人氏も、丸刈り頭でビールに焼酎、おつまみなどお膳の上げ下げに来て、大人たちの会話に加わった。朝練、朝食も一緒だから、おかげで選手たちの素顔がよく見え、彼らが知る小嶺さんも知れた。若い頃は一升瓶2本はいけたという酒豪。それでも大久保氏が「先生は夜中まで飲んでも誰よりも先に練習に来ていた」というようにエネルギッシュだった。おおらかな時代の取材で、こちらも必死だった。

練習量の多さ、過酷さでも「日本一」と話題になったが、小嶺さんは「指導とは料理みたいなもの。材料を定めて、見抜いてやらんといかん」と内面を大切にした。意気盛んに燃えるタイプなのか、反発するのか、おとなしいのか。成績、性格、趣味、彼女まで把握していた。それぞれの個性に絶妙な距離感で接し、ユニークな「スパイ活動」もした。現在ベルギーのシントトロイデンでCEOに就く立石敬之氏は「練習がきつくて寮の部屋でグチっていたら、服をしまうファンシーケースの中から先生が出てきた。腰が抜けそうだった」と述懐する。かつては鉄拳も当たり前で、向こう見ずの熱い性格から「ダンプ」の愛称がついた。選手たちに真剣に、根気強く向き合った。

終戦直前に7人きょうだいの末っ子として生まれた。父はその数カ月前に沖縄で戦死し、顔を知らない。農地改革で田畑を失う中、女手ひとつで子どもたちを育てた母ミツキさんのひた向きで、たくましい姿が原点にある。大商大から教師の道を進む時、その母から「素晴らしく、大変で、やりがいのある仕事。人間を育てることが勉強なんですよ」と背中を押され、ダンプ先生は無我夢中で駆けた。

座右の銘は「動」。マイクロバスのハンドルを握り、全国の強豪の門をたたいた。長崎、九州では学べないサッカーを求めた。教壇に立ちながら、日本サッカー協会公認S級ライセンスを取得し、W杯も見に行った。ずっと「動」だった。「見る者が動くことによって見えない部分が見える。正面から見た彫刻も、自分が動くと違うように見える。あそこの置きものの裏側、そこからは見えないでしょ」。校長室で聞いた話は忘れられない。

「動」はその後、記者として真実に迫る上で自分の座右の銘にさせてもらった。最後にグラスを重ねたのは15年12月の古希を祝う席で、その時はノンアルコールだった。5歳下の小嶺さんを師と仰ぎ、マイクロバスによる強化遠征をまねた鹿児島実の元監督、松沢隆司さんは17年に他界した。今ごろ、天国で焼酎を交えてサッカー談議を楽しんでいるのだろうか。

無尽蔵のエネルギーを誇った小嶺さんがいない。信じられない。スポーツ刈りの真っ黒に日焼けしたあの四角い顔が、ファンシーケースの中からのように、そのうちひょいと出てきそうな気がしてならない。合掌。【押谷謙爾】

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