「1月7日

小嶺忠敏、亡くなる。

長いこと、お疲れ様でした。

ご苦労さまでした。

あとですぐ、私もいくからな」

日記としても使っている手帳。元帝京高サッカー部監督の古沼貞雄さん(82)はこの日、そうしたためた。

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「なんとも、言葉では言えない。考えたくないつらさを感じる、そういう寂しさ」と、心境を言葉にした。高校サッカー界の歴史を築き上げてきた同志。体調不良は耳にしていた。

高校選手権の優勝はともに6度。高校サッカー史に残る名将同士。6歳下の後輩になる小嶺監督は「特に若いころはよく話を聞きにきた」と振り返った。朝練習、ウエートトレーニング、海外遠征。高校サッカーでは先駆けて古沼氏が取り入れていた強化を、小嶺氏も積極的に行った。県立高校で資金が潤沢ではなかったが、国内遠征では対戦校の体育館を借りて寝泊まりすることもあった。「まめにメモをとる人だった。僕が話したことなんてメモするなと言っても、『いやいや、まあまあ』なんていいながらね」。長崎のサッカーを強くしたい-。その熱意は古沼氏にもひしひしと伝わっていた。

学ぶだけじゃない、超えてやる。そんな小嶺氏の隠しきれない野心も、古沼氏は感じていたという。「帝京が試合に負けて10キロ走を行ったと聞けば、教え子に20キロを走らせていた」となつかしそうに振り返る。帝京が体づくりのためにとにかく食事を多く食べていると知ると、それも徹底させた。ある大会の際、国見と帝京が同宿になったことがある。古沼氏が選手とともに朝食のバイキングに行くと、先に来た国見の選手によって複数種類のおかずが品切れになり、ごはんも追加で炊飯を急いでいるところだったという。古沼氏は「国見と同じ宿だとおかずがない。これは有名だった」と、笑って回想した。

帝京に勝つには、それ以上のことをしないといけない。そうして、猛練習で知られる国見ができあがった。選手だけでなく小嶺監督自身も、古沼氏を強く意識していた。ある大会の期間中、宿にサウナがあると知れば、古沼氏が何回サウナに入ったか後輩の指導者にチェックさせ「俺はそれより2回多く入る」と息巻いたことも。根底には、少年のような負けず嫌いの心もあった。

互いに世代別代表に選手を輩出し、代表合宿の際には練習場が見える宿舎の部屋にある2段ベッドの上と下に寝転がってトレーニングを見守ったことも。「あの選手はこうだ、うちの選手は-」。1度話し出せば、日が暮れるまで育成議論が止まることはなかった。

取り組んできたことがすべて正しかったかはわからない。ただ2人が競い、また支え合いながら試行錯誤を続けた足跡として、100回に渡る高校選手権の歴史が築かれた。昨年12月には九州で行われた試合に、妻に車椅子を押されながら参加したという話も聞いていた。「年にはどうしてもね、勝てませんから」。戦友を悼み、自らにも言い聞かせるように、古沼氏は静かな口調で語った。

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