2002年W杯日韓大会でブラジルが優勝し閉幕してから30日で20周年となる。日刊スポーツでは先月31日、20年前の開幕に合わせて「2002年W杯 20年後の証言」と題して、日本代表のフィリップ・トルシエ元監督(67)らキーマンたちを4回にわたり連載。今回は番外編としてトルシエ監督を最も近くで補佐した日本代表マネジャーの山下恵太氏(53)に当時を振り返ってもらった。

   ◇   ◇   ◇

トルシエ氏は神経質な性格で、日本協会とのトラブルは少なくなかった。その怒りを最初に聞く、いわゆる苦情係が山下氏だった。

山下氏 移動の際にはいつも運転する私の隣にトルシエさんが座っていた。言葉数の多い人で、常に英語で話し掛けてくる。それは協会への苦情もあるし、楽しい話題もある。その中で唯一、一言も発しない日があった。00年6月、監督解任がうわさされて岡野(俊一郎)会長に呼ばれた日。日本代表の成績も良くなかったし、ある程度、クビを覚悟していたようだった。赤坂のホテルへ監督を送って私は外で待機し、2時間後に出てきた。

「ヨー、ケイタ。待ったか?」。いつものおしゃべりモードだった。表情を見て続投が決まったと分かりましたね。

法外な要求も多かった。99年ワールドユース選手権(ナイジェリア)の前だった。Jクラブから選手を出してもらう日本協会としては、健康は最も気を使うところ。予防接種は間隔を開けて3回打つことを義務づけたが、南アフリカやブルキナファソなどで監督経験のあるトルシエ氏は「予防接種は1回だけでいい」と主張。日本協会が断ると「なんでオレの足を引っ張るんだ。協力する気はあるのか」とけんか腰できた。

遠征直前には急に「阿部勇樹を招集する」と言い出した。阿部は当初、予定メンバーに入っていなかったため、当然予防接種を受けていない。日本協会が断ると怒り爆発。さらに空港に見送りに来た代表チームドクターを見つけると詰めより「お前のせいで阿部が呼べなかった」と周りを気にせず暴れた。

トルシエ氏は、当時サッカー途上国の日本に先進サッカーを教え込むとの認識が強かった。そのため、法外な要求をしても「欧州では当たり前」との認識だった。合宿時も「ミーティングルームは窓のない部屋で集中できる環境をつくれ。食事会場は窓の多い部屋でリラックスさせろ」と、選手ファーストの要請も多かった。

トルシエ監督が日本に残したものの1つに、チーム全体で戦う意識を植え付けたことが大きいという。開幕前の代表発表で大黒柱だった中村俊輔が落選した。

山下氏 戦力として重要な俊輔を落とし、最後はベテランDF秋田豊、FW中山雅史さんをメンバーに入れた。俊輔は11人に入ると輝くけれど、12人目以降になるとベンチの雰囲気を悪くすると判断した。その分、秋田と中山さんはどの位置にいてもチームのためにベストを尽くすことができる。W杯は個ではなくグループで戦うことをこのメンバー構成で示した。

山下氏は98年W杯フランス大会でも日本代表マネジャーを務めた。大会直前の合宿地スイスで三浦知良と北沢豪が外れた。直後、山下氏の運転で2人はアルプスを越え、イタリア・ミラノへ移動している。

山下氏 もし98年がトルシエ体制だったら、カズさんとキーちゃん(北沢)は外さなかったと思う。カズさんはチームの精神的な支柱だったし、キーちゃんは気遣いがすごかった。トルシエさんなら外さなかったのだろうと今になって思う。

今はほとんどの代表メンバーは欧州組だが、当時は川口能活、中田英寿、稲本潤一、小野伸二と4人しかいなかった。トルシエ監督は日本代表メンバーに海外進出を促し、日本協会には食事メニューの改革を要求した。アフリカなど海外遠征時には日本から食材を持ち込まず、現地のものを食べることに徹し、選手を引き連れて児童養護施設などにも出掛けた。代表合宿時にも、選手たちが海外に挑戦した際になじみやすい環境を整えることを常に考慮して行動していた。

トラブルも多く、山下氏はもちろん、日本協会も頭を悩ます日は多かった。その中でも日本代表がチーム全体で戦うこと、選手の海外挑戦の重要性など、日本サッカーの将来につながる4年間でもあった。山下氏はトルシエ氏への感謝を忘れたことはない。【盧載鎭】

 

◆山下恵太(やました・けいた)1969年(昭44)4月5日、岡山県倉敷市生まれ。92年筑波大卒業後、日産フットボールクラブ(現J1横浜)入社。96年日本サッカー協会に転職。97年10月から02年6月まで日本代表チームマネジャー。現在日本協会こころのプロジェクト推進部長。夫人と2男1女。

 

【まとめ】当時のキーマンたちが語る秘話 2002年W杯日韓大会「20年後の証言」/連載一覧