京セラ創業者で名誉会長だった稲盛和夫(いなもり・かずお)さんが、24日午前8時25分、老衰のため京都市内の自宅で死去した。90歳だった。Jリーグ京都を発足当時から会長職で支え続け、本職では「経営の神様」としてKDDIを設立、日本航空の再建にも成功した。葬儀・告別式は近親者を中心に終え、後日にお別れの会を執り行う。喪主は長女の金沢(かなざわ)しのぶさん。

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稲盛さんは鹿児島大を卒業後、59年に創業した京都セラミック(現京セラ)をセラミック技術などで、一代で世界的な電子部品メーカーに育てた。84年に第二電電企画(現KDDI)を旗揚げ。電気通信事業が自由化され、その商機を逃さなかった。

経済界トップを走る重鎮が、90年代に出会ったのがJリーグだった。京都にJクラブを求める約25万人の署名活動を受け、94年に稲盛さんが会長となり、運営会社が発足。これが京都というクラブ誕生の第1歩になった。メインスポンサーとなる京セラを中心に、任天堂やワコールなど地元の大手企業が集まった。当時の関係者は言う。

「地元から頼まれて、稲盛さんはいやとは言わなかった。サッカーは特に詳しくなかったが、勝負にはこだわる人で『経営でもサッカーでも勝ちたい』と、よく口にしていた。稲盛さんがいなければ、間違いなく現在の京都はなかった」

Jリーグ記録に残る96年の17連敗など、京都の90年代後半は特に暗黒時代だった。選手はラモス、森保、カズ(三浦知良)ら日本代表級を次々に獲得。オフト、加茂ら有名監督が就任しても結果が出ない。クラブの会長、名誉会長を歴任した稲盛さんは、それでも事実上のオーナーとして支援を続けた。

J2で迎えた04年、西村昭宏当時監督(64)は稲盛さんの情熱が忘れられないという。

「開幕前に京セラ本社に呼ばれ、チームコンセプトの説明を求められたことがあった。細部にこだわる人だった」といい、「練習試合でベンチ内に人の気配があり、振り向くと稲盛さんが立っていた。とにかく情熱はすごかった」。

別の関係者によると、3度目のJ2降格となった07年を境に、稲盛さんによる現場への口だしが増えたという。ある試合を1-0でリードして迎えた後半終了間際、京都側がボールを保持して時間稼ぎをするのを見て、消極的だと指摘したという。当時の本拠地西京極には、顔を紅潮させ、応援する稲盛さんがいた。“金も出すが、口も出す”という時代だった。

10年には、経営危機に陥った日本航空を無給で再建させた。会社の組織を細分化し、採算を管理する京セラの経営手法「アメーバ経営」の導入が成功した。自身の経営哲学などを教える「盛和塾」を開き、人材育成にも貢献した。

その稲盛さんが存続させてきた京都は、96年のJリーグ加盟から27年目を迎えた今季、12年ぶりにJ1に復帰した。現在14位で残留争いに巻き込まれる。この数年は会場で観戦できなかったクラブの生みの親のためにも、熱い試合が期待される。【横田和幸】

○…稲盛さんはプロ野球の球団経営にも興味を示していた。球界再編の流れがあった03年9月、球団含むダイエーグループに関心を抱いていることが判明。当時のダイエー高塚猛オーナー代行兼球団社長が、稲盛さんとダイエー本社の高木社長が接触した事実を認めた上で「『ダイエー(本社)ごと(球団の面倒を)みましょうか』という話はあった」と明かした。京セラは06年、大阪ドームの施設命名権を取得し「京セラドーム大阪」となっている。