サッカーの元ブラジル代表で母国をFIFAワールドカップ(W杯)で3度の優勝に導いた「王様」ペレさんが29日、サンパウロ市内の病院で死去した。82歳だった。

元日本代表FW釜本邦茂氏(78)が30日、日刊スポーツの取材に応じ思いを語った。

「やっぱり一番の思い出は、国立競技場での僕の引退式に来てくれたことですよ。肩車までしていただきましたから」。1984年(昭59)8月25日、40歳の時だった。

「ペレはもう44歳やのに、『半分だけでもやる』って言って、ゲームにも出てくれたんですよ。僕もうれしかったし、ファンの人もグラウンドに立ってプレーしてくれたのは、うれしかったと思うし、記憶に残っているんじゃないかな」。

現役選手としては対戦することはできなかったが「実はペレがいたニューヨーク・コスモスと同じ北米リーグのロサンゼルスのチームから『プロ契約しないか』って誘われていたんですよ。当時は僕も30歳を過ぎていたし、もう少し若かったらチャレンジしていたかも」と後悔の気持ちも残っている。

最初にプレーを見たのは1958年(昭33)のW杯スウェーデン大会。17歳のペレがブラジルに初優勝を導いた映像だった。「当時はまだ中学生で、子どもだったからね。映画の世界のスーパースターみたいな。人じゃないな、とも思ったよね。僕も20代になって(62年)チリ大会、(66年)イングランド大会と見て、やっぱりすごいなと。でもマネしようとか目標とかなんて思いもしないレベルでしたよ」と懐かしんだ。

「ペレがケガで退場したから国際ルールも変わったんですよ」。66年イングランド大会までは、今は5人まで拡大した交代枠が存在しなかった。「相手もペレの足を蹴らないと止めようがないんですよ。だからケガで退場しちゃって。ブラジルは10人で戦った。それから交代選手がOKになった。(64年)東京五輪の時にもGKが負傷したらフィールドプレーヤーがGKをやらないといけなかったから、僕もGK練習をしたんですよ」。70年メキシコ大会からは交代枠が確立した。

今年のカタール大会で日本代表がドイツ、スペインを破ったが、「ブラジル流の個人技を日本に持ってきたきっかけでもありますよ」と現代の日本サッカーへの影響も甚大だったと言う。

東京五輪前に日本に招かれたドイツ人のクラマー氏が「日本サッカーの父」と呼ばれているが、日本人に体形の近いペレらの姿は手本にもなった。セルジオ越後氏、ネルソン吉村氏、ラモス瑠偉氏らが来日して伝道師となり、カズはペレが在籍したサントスとプロ契約を結びパイオニアとなった。「そういう意味でも日本におけるペレの存在は大きいよね」と釜本氏は言う。

02年日韓大会の招致活動時や、06年ドイツ大会などで会ったが、近年は対面することはなかった。「出会えたことに感謝ですよ」。釜本氏はペレ氏らレジェンドの思いも受け継ぎ、サッカー普及活動に尽力し続けるつもりだ。【鎌田直秀】