Jリーグの野々村芳和チェアマン(50)がさまざまな話題について語る不定期連載「ののさんの あの話 この話」。約3カ月ぶりとなる久しぶりの第2回は、いよいよ17日に開幕する「30周年のJリーグ」について。元Jリーガーで札幌社長も務め、昨年3月にJリーグをけん引するリーダーになった野々村チェアマンに、30年前を振り返りながら、30年後の未来を見つめてもらいました。

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30年前の5月15日。大学3年生だった僕は国立競技場のゴール裏にいた記憶があります。V川崎-横浜Mの開幕戦は、本当に華やかでした。あれだけのものを見せられ、サッカーに打ち込んでいた僕も「何年後かには、このピッチに立つんだ」と、自然な気持ちが芽生えたことを思い出します。

Jリーグが開幕した当時は、どちらかというと「ファッション」的な雰囲気でした。エンターテインメントとして人が集まってくる。華やかさはあったものの、まだサッカー文化として、「本物」ではなかったと思います。

30年がたって、明らかに変わりました。今では全国60ものクラブや、その地域に「このクラブを本気で強くしよう」と思っているサポーターがたくさんいらっしゃる。それがJリーグが本来目指していた姿。そして、Jリーグならではの圧倒的にすごいところだといえるのではないでしょうか。

一方で、まだまだ世界のリーグとの差も感じています。30年前の当時、イングランド・プレミアリーグと比べても、クラブやリーグの規模はそれほど変わらなかったと思います。それが今は、世界トップと言われるリーグとの差がついてしまった。でもここで、ネガティブになる必要はないと思います。欧州に100年の歴史があるなら、まだ日本のJリーグは、30年なんですから。

チェアマンになり「30年後の未来」を考えるようになりました。今は欧州が「5大リーグ」といわれますが、そのままの水準でいるとも思えない。米MLSも、もっと伸びているかもしれない。30年後、世界のリーグに並び立つために、Jリーグはまず、アジアで圧倒的なリーグになることが大事です。

そのために今、何をしなければいけないか。Jリーグができて最初の15年は、選手にお金をかけることを知りました。「2億円でストライカーを獲得すれば、勝てる」といったように。次の15年は、監督に投資することを学びました。ここから次は、フロントに投資すれば勝てるという時代にならないといけないと思います。選手が移籍するように、勝たせられるゼネラルマネジャー(GM)が育ち、クラブ間をステップアップするように“移籍”する動きが生まれるようにしたいです。

他には、例えばアジアからのプロモーション。(札幌時代にタイ代表の)チャナティップを呼んで活躍したことで、タイの子どもたちが夢を見られるようになりました。安心で安全という日本ならではの魅力もアピールして、アジアから世界中の子どもたちがJリーグに行きたいと思ってもらえるようになればいいと思います。

昨年のW杯を現地カタールで見ながら、再確認したことがあります。日本代表の活躍はすごかった。そして、国内があれだけ盛り上がったのは、日本人だからこそ。一方で、アルゼンチンの優勝とメッシのストーリーは、誰もが「素晴らしいものを見たな」と思ったはずです。

国内に置きかえれば、圧倒的な熱量で応援する地域のクラブと、世界で戦えるクラブ。一見、相反する戦略に思われるかもしれませんが「私たちの街のチームが一番好きだけど、このビッグクラブも応援する」となるようにしたい。今年から、地域に根差したサッカー番組を放送して60クラブを輝かせる取り組みを始めます。地元のクラブを応援する本来の楽しさを伝えていきます。一方で上位クラブへのJリーグからの配分金を厚くした(※注)ように、ナショナルコンテンツになるクラブを作っていきたい。この2つのテーマを両立させます。

次の30年を考えた時、これまで以上に長期的な視点で物事を考える必要があるように思います。華やかさとか、エンターテインメントの度合いを残しながら、本物のリーグを作っていく-。

ここから「30年後」もまだ、1つのゴールでしかありませんが、そんなJリーグを目指していきたいと思います。(Jリーグチェアマン)

(※注)配分金の変更 これまでは所属カテゴリー(J1~3)に応じて一定額を支給する「均等配分金」が中心だったが「結果配分金」に重点をシフト。24年度から、前年度の競技順位と人気順位に基づいた配分金の支給を開始する。将来的にJ1クラブの配分金がJ2の5~6倍になるように段階的に割合を高める方針。

◆野々村芳和(ののむら・よしかづ)1972年(昭47)5月8日、静岡県清水市(現静岡市清水区)生まれ。清水東高、慶大法学部から95年に市原(現千葉)入り。00年に札幌に移籍し01年に現役引退。主にMFとしてJ1通算118試合6得点、J2通算36試合2得点。その後、解説者やサッカースクール社長などを務め、13年に札幌社長就任。15年にJリーグ理事に。22年3月、第6代Jリーグチェアマンに就任。日本協会副会長も任されている。愛称「ののさん」。