世界のサッカーに最も影響を与えた元オランダ代表のスーパースター、ヨハン・クライフ氏が逝った。3月24日、まだ68歳だった。母国オランダはもちろん、選手や監督として数々の栄光を刻んだアヤックス(オランダ)、バルセロナ(スペイン)、そして世界中が悼んだ。天才的なプレーと刺激的な言動。日本のサッカーファンにとっても、あまりに大きな存在だった。【構成=荻島弘一】

●74年W杯西ドイツ大会、背番号14

 今から42年前、初めて生中継されたW杯決勝が、1974年西ドイツ大会だった。当時唯一の海外サッカー番組だった「三菱ダイヤモンドサッカー」で流れた地元西ドイツとオランダの対戦。日本のサッカー少年は、初めて見るW杯に圧倒され、日本サッカーとの違いに驚愕した。そのブラウン管の中に、オレンジ色のユニホームに身を包んだ背番号14のクライフがいた。

 サッカーに夢中になっているころにこの試合を見た今の50代にとって、クライフは特別な存在だった。試合は西ドイツが逆転勝ちした。「皇帝」ベッケンバウアーと「爆撃機」ミュラーの活躍が目立った。もっとも、主役は別にいた。クライフだった。生中継の解説や、その後の専門誌での特集で「トータル・フットボール」のすごさを知った。クライフの魅力も知った。

 今では当たり前の「全員攻撃、全員守備」が新鮮だった。当時は分業制で、攻め上がったDFに対してベンチから「下がれ下がれ」の声が飛ぶのは普通。「DFはハーフウェイラインを超えてはいけない」と教わったことまであった。そんな「常識」をクライフ率いるオランダは覆した。それが、うれしかった。

 学校の部活でも「14」は奪い合いになった。ペレの「10」もいいし、ベッケンバウアーの「5」も人気はあった。それでも、クライフが「自分の番号にする」と付け続けた「14」は別格だった。技術があってチームの中心であることはもちろん、細身で女子にも人気がある選手がつけた。それが、暗黙の了解だった。

●テレビ番組に流れるクライフ・ターン

 自宅の部屋には長くクライフのポスターを貼っていた。足もとにボールをキープしながら、直立した姿勢で右手でスペースを指さすオランダ代表の14番。攻撃のスイッチを入れる直前、これからオレンジ軍団の激しく、華麗で、スピードに乗った攻めが始まることを予感させる姿だった。

 ダイヤモンドサッカーのオープニングで流れる「クライフ・ターン」もマネした。軸足の後方にボールを通し、体を反転させて相手を抜き去る。サッカー仲間で競い合うようにしてマネたが、クライフのように鮮やかには決まらなかった。それほど、その動きはしなやかで技術は高かった。

 そんな憧れのクライフが来日したのは意外と少なくて3回だけ。選手として1回、監督として2回。ファンとして、記者として、そのすべてを生で見た。

 最初は80年、ワシントン・ディプロマッツのエースとして親善試合に来日している。国立競技場での日本代表と対戦は、チケットを買って(当時は代表戦のチケットもすぐに買えた)見にいった。ケガをしていたものの、やはりその技術は素晴らしかった(ように見えた)。

 2度目のは90年、親善試合でバルセロナを率いて来日した。後に「ドリームチーム」と呼ばれるチームは暑さと長旅の疲れで動きは悪かったが、それでもクライフ監督の哲学通りに「攻撃サッカー」を見せた。広島での試合の前座では、ザ・ミイラ(漫画家の故望月三起也さんが監督を務めた芸能人チーム)の助っ人としてクライフ本人もプレーした。取材に行っていなかったのが残念だったが。

 そして3度目は欧州王者としての来日。92年12月のトヨタ杯だった。練習取材の時に、ミニゲームに入ってプレーするクライフを見た。間違いなく、1番うまかった。チームのコンディションは万全でなく南米代表のサンパウロに敗れたが、クライフはベンチにいるだけで光り輝いていた。

●真理を突く「サッカーはテクニック」

 思えば、クライフでサッカーを知り、その魅力にはまり、今に至っている。40年もクライフを追いかけてきたことになる。その間、日本のサッカーは「マイナー競技」から脱却。Jリーグが誕生し、W杯にも出場を続けている。その急成長を引っ張ったのは、今の50代から60代にかけての「クライフ世代」なのだ。

 02年W杯を前に、日刊スポーツはバルセロナ在住のクライフにインタビューをした。「サッカーはテクニック」。「W杯は美しい敗者を作る」「日本代表のみなさん、シュートしてますか」。3日間、その言葉が大きく紙面を飾った。真理を突いた見出しは、クライフの哲学そのものだった。

 クライフが逝って、1つの時代は終わった。メッシは「レジェンドが去った」とつぶやいたが、その思想はこれからも永遠に生き続ける。クライフが言い続けてきた「攻撃的で見て楽しいサッカー」。それは、今後もサッカー界の指標となっていくはずだ。

 ◆ヨハン・クライフ 1947年4月25日、オランダ・アムステルダム生まれ。64年にデビューしたアヤックスで、欧州チャンピオンズ杯3度優勝。73年に移籍したバルセロナでもリーグ優勝した。78年に一度は引退したが、米MLSで復帰。古巣アヤックスなどを経て、84年に引退した。W杯では74年大会で準優勝したが、78年大会は出場を辞退。代表通算は48戦33得点だった。欧州最優秀選手賞は最多タイの3度受賞。88年監督に就任したバルセロナでは91-92年欧州チャンピオンズ杯優勝に導くなど指導者としても活躍した。