新型コロナウイルス感染拡大の影響で、国内外のサッカーリーグ、代表の国際試合は中断、中止を余儀なくされている。

生のサッカーの醍醐味(だいごみ)が伝えられない中、日刊スポーツでは「マイメモリーズ」と題し、歴史的な一戦から、ふとした場面に至るまで、各担当記者が立ち会った印象的な瞬間を紹介する。

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「マラドーナがブラジルに来てるよ。インタビューしたい?」

日刊スポーツのブラジル通信員、エリーザ大塚さんからの提案がそもそもの始まりだった。Jリーグ開幕前の93年3月。ディエゴ・マラドーナの単独インタビューに成功した。サッカー担当とモータースポーツ担当の二足のわらじで、F1ブラジルGPの取材のため、サンパウロに来ていた。

大塚さんにはF1取材の通訳兼コーディネーターをお願いしていた。また、日本のサッカーチームがブラジル人選手獲得する交渉の通訳も務めており、国内に幅広い人脈を持っていた。幸運なことに、マラドーナの代理人もブラジル人で、サンパウロに事務所を構えていた。

マラドーナはアルゼンチン代表として82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会のワールドカップ(W杯)に出場。86年には主将で優勝に導いた。しかし、90年W杯後にはイタリア・ナポリ在籍中に麻薬不法所持で逮捕され、92年7月にスペインのセビージャに移籍。その一員として、サンパウロFCとの親善試合のため滞在していた。

当時のマラドーナは全盛期は過ぎたとはいえ世界のスーパースター。サッカー専門誌の記者が南米で3カ月粘っても、インタビューができないという話も同僚から聞いていた。代理人からも芳しい返事はもらえず、インタビューはあきらめていた。それでも、3月26日、モルンビー・スタジアムで行われた親善試合はチケットを買って観戦。そのプレーに酔いしれた。

試合後、夕食を取っているところに、代理人から大塚さんのもとへ電話があった。「マラドーナが15分だけ話すと言っている」。宿泊しているホテルのロビーで翌日の午前11時に待ち合わせた。「本当に来るかはわからないよ」。大塚さんも懐疑的だった。しかし、マラドーナはやって来た。

大塚さんの通訳を交えての取材は、15分の予定が40分近くなっていた。マラドーナはご機嫌で、こちらの質問にもよどみなく答えてくれた。

「ボクが一番初めに勝った大会を知っているかい? 79年、日本でやったワールドユース選手権なんだ。ボクは日本に帰らなければならない。最初と最後は日本でプレーして、日本で辞めたいんだ」

当時、弟のウーゴ・マラドーナが、Jリーグ入りを目指すPJMフューチャーズに所属していたこともあり、日本行きを前向きに表明した。1年後にはW杯米国大会も迫っていた。

「予選は自信があるんだ。本大会出場もできると思う。でも、僕が出るかどうかはまだ分からない。W杯で戦うためには、体力と精神力がどちらも完全でないといけないからね。これからやってみて、それができるようなら4回目のW杯に行くよ」

94年W杯米国大会後、マラドーナが日本にやってくる。インタビューでの印象から、その思いを強くした。約束通りW杯に出てきたマラドーナだったが、第1戦終了後に薬物検査に引っ掛かり、大会から追放され、日本行きは消えた。今も、テレビでマラドーナ氏の映像が流れるたびに、インタビュー後に握手した際の力強い手の感触がよみがえってくる。【桝田朗】