選考レースとして95年8月の世界陸上イエーテボリ大会(スウェーデン)、北海道マラソン、11月の東京国際女子、96年1月の大阪国際女子、3月の名古屋国際女子の5レースが設定された。日本陸連では「2時間26~28分台で外国人選手に勝つ」という選考の条件をつけていた。

まず世界陸上イエーテボリ大会では、盛山玲世(せいやま・さちよ、芙蓉)の9位が最高という惨敗で実際に選考レースとしては機能しなかった。

同時期に行われた北海道マラソンにはバルセロナ五輪銀メダリストの有森裕子(リクルート)がエントリー。前回のバルセロナ五輪後は精神的な不調や故障に苦しめられたが、かかとの手術に成功してバルセロナ五輪以来のフルマラソンとなった。気温25度という厳しい条件の中、2時間29分17秒の当時の大会記録で制し一躍、2大会連続の五輪出場が現実味を増した。

11月の東京国際女子では浅利純子(ダイハツ)が2時間28秒46のタイムで優勝した。転倒しながらもあきらめずバルセロナ五輪優勝のワレンティナ・エゴロワ(ロシア)を破った。また、93年世界陸上シュツットガルト大会で優勝するなど抜群の実績を持っていることから代表の座をほぼ手中にした。

1月の大阪国際女子はカトリン・ドーレ(ドイツ)が優勝し、初マラソンの鈴木博美(リクルート)が23秒離された2時間26分27秒で2位に入った。この時点で鈴木は有力な候補となった。初マラソン2位というのは素質や適性の高さを示す一方、経験不足というマイナス面もあり、それが結果として命取りとなる。

最後の選考レースの3月の名古屋国際女子で、波乱が起きる。初マラソンの真木和(ワコール)が2時間27分32秒で優勝したのだ。ドーピングで出場停止になるなど苦労を重ねた真木の強さは格段で、2位が世界陸上9位の盛山、3位がバルセロナ五輪金メダルのエゴロワと相手関係も悪くなかった。

最終的には東京国際女子を勝ち、その時点で最強の呼び声が高かった浅利、名古屋で強烈な勝ち方をした真木。そして前回銀メダルで夏のマラソンで優勝した有森が選出され、選考レースで最もタイムが良かった鈴木博美が落選した。鈴木はドーレ(ドイツ)に敗れて2位だったが、真木は終盤から積極的にレースを引っ張り、優勝。当時の陸連幹部の間では選考材料として「優勝選手優先」「記録より勝負」の方針が確認されていたのも鈴木には痛手となった。

すべての選考レースを通じ、日本選手最高タイムを出しての落選に鈴木のショックは小さくなかっただろう。所属するリクルートは鈴木のコメントをワープロで打って配ったが、そこには「自分の力を出し切り、希望と不安の中で選考結果を待っていましたが、非常に残念です」と、簡単だが、無念さが表れていた。

所属選手で有森が選出され、鈴木が落選という状況に小出義雄総監督は「私見だが、すっきりした選考基準を設けなければいけないかも」と語った。

本番では有森が銅メダルを獲得したが、真木は12位、浅利は17位と敗れた。鈴木は1万メートルの代表として15位に終わったが、97年の世界陸上アテネ大会のマラソンで2時間29分48秒で優勝し、アトランタのうっ憤を晴らした。

(年齢、所属は当時)