1月下旬、警備会社の研修会で講演をさせていただく機会があった。

車椅子で生活している田中将(すすむ)さんと私が講師として、人生のターニングポイントや住みやすいまちづくり、警備員に求めることなどについてお話しをさせていただいた。

講演は警備会社相談役の竹下さんからさまざまな質問が飛び交い、その質問に応じるスタイルで進んだ。

田中さんは15年程前に動脈の病気になり、一晩で下半身付随となった。

それまでは仕事に励む1児の父として、活発に生活をしていた。ある日の仕事帰り、同僚とあいさつを交わし帰宅する瞬間、激痛に見舞われそのまま搬送。そこから田中さんの車椅子生活がはじまった。

私には想像もできない出来事で共感するのは難しいが、田中さんの語る言葉ひとつひとつに深みを感じた。

車椅子で電車をはじめて乗った時のエピソードや15年前と比べて暮らしやすい環境になっているか?という点についても話を聞けた。

講演する立場でありながら竹下さんと田中さんのお話しが興味深く、いろいろと考えさせられた。

印象に残ったことは、まずはどのようにして社会復帰したかというターニングポイントについて。

田中さんの場合は元々、竹下さんの同僚で親交があった。田中さんが引きこもりになっていると聞きつけた竹下さんが、田中さんに「講演」を依頼し、それがきっかけで外へ出れるようになったと話す。

恩人のおかげで、今の自分があると笑顔で話していた。

はじめは絶望感、生きている意味は? と問うこともあったそうだが、今は生きていることに感謝、誰かのために何かをしたいというモチベーションにと変わったと話す。

そして車椅子マラソンも趣味とし、仕事ではオペレーター業務を巧みにこなしている。

息子さんとショッピングを楽しんだり、変わらず奥様とも仲良く暮らしている。

私もターニングポイントは「人との出会い」だった。改めて、「出来事」と「出会い」は人生を変えてくれると感じた。

もう1つは「心のバリアフリー」というフレーズだ。ここ数年で公共施設でのバリアフリーが充実してきた。これに関しては健常者の身である私も感じている。誰もが暮らしやすい環境を目指し、さまざまな工夫がされている、と。

しかしながら環境は変化したが、人々の心はどうだろうか? 田中さんの話を聞いて、ハッとさせられた。

「私たち障がいのある人たちは自分でできることと、難しいことがある。そして、それぞれ障がいによって整備された環境が1人で使えない場合もあるんです」

確かにその人の立場にならなれけば出来ることもわからない。大切なことは何だろう? 困っている方に声はかけられているか? と考えさせられた。

そこで、みなさんは警備員のお仕事の種類を知っているだろうか。

建設中の建物の前や道路工事、マンションの警備で警備員の活躍がよく目立つが、トライアスロン大会や箱根駅伝などのロードレース、アーティストのコンサートでも警備員は欠かせない存在だ。時にはSPの仕事もこなす。

そして、私たちの身近にある公共機関、電車のホームでも警備員の活躍がある。

例えば車椅子の方の乗り降り・乗り継ぎのサポート、ベビーカーやお年を召された方の階段サポートなど、駅員の他に警備員が行っているのだ。

さまざまな事柄に柔軟に対応できるよう、研修でスキルを磨いている。

この事柄を知り、私は警備員を一言で言うならば「人々の暮らしを豊かにする何でも屋」と称したい。

その警備員の行いが「心のバリアフリー」にも関連していると感じた。

私は世界を転戦していた中で、日本人は比較的シャイだと感じている。海外に行くと、重い荷物を持っていたらフランクに「持つよ」と言って助けてくれるか、日本ではちょっと勇気が必要だったりする。それは見て見ぬふりではなく「話しかけても大丈夫かな? 嫌がられないかな?」という気遣いがそうさせている場合もあると思う。

しかし、本当に困っている時は声をかけられるだけで安心する時もある。障がいのある方や妊婦、お年を召された方、困っていそうな方を見かけたら、ひと声。

これだけでも心のバリアフリーとなると思う。

公共施設の設備は整ってきた。あとは心のバリアフリーで誰もが暮らしやすい環境を整えていきたいと感じた。

(加藤友里恵=リオデジャネイロ五輪トライアスロン代表)

対談中、左は田中将さん、真ん中は竹下年成さん
対談中、左は田中将さん、真ん中は竹下年成さん
講演会の様子、30名ほどの警備員が参加
講演会の様子、30名ほどの警備員が参加