イギリス人の陸上選手、ロジャー・バニスターが現れるまで、人類が1マイル(1600メートル)で4分を切ることができるとは誰も想像していなかった。

 そのバニスターがトレーニングを重ね、1954年、ついに1マイルで人類初の4分切りを果たした(3分59秒4)。その後、たった1年の間に23人の選手が4分を切ることになった。身体能力に支配されている陸上競技ですら、人類が共有した「マインドセット(思い込みや先入観)」に支配されているということでこのストーリーはよく知られている。

 1998年、バンコク・アジア大会の準決勝で伊東浩司さんが10秒00で走ってから、いつ、誰が破るのかと20年間言われ続けてきた10秒の壁。ついに昨日、桐生選手の手によって破られた。今この瞬間の日本記録は9秒98だ。陸上は風の影響が大きい競技で、風を計算に入れると実質、桐生選手が今季、最も速かったのは4月の織田記念陸上だ(向かい風0・3メートルの中、10秒04)。だから数年前から桐生選手の実力はすでに9秒台に入っていて、いつ出るかは運に左右されていたと言える。

 まるで野茂英雄選手がメジャーリーグで初めて三振を取った時のように、9月9日を境に日本人のマインドセットは変わるだろう。10秒はもはや壁でなくなり、今から陸上を始める選手たちは日本記録を見るたびに9秒98というタイム(もしかしたらさらに速いタイム)を意識することになる。自然と目標は9秒台に置かれ、すべてはそこからの逆算になる。まるで、スマートフォンで検索をするのが当たり前になったように、もはや次の世代の当たり前は9秒台になった。

 現役選手にとってももう10秒は特別な意味を持たなくなった。アスリートであれば、何か世の中にインパクトを与えたいというのは共通の思いだが、それはもう10秒を切るだけでは達成されなくなった。もっと次の世界に進まざるを得なくなったのだ。記録を狙うにしても、今この瞬間のターゲットは9秒98になっている。

 もう一方で、この記録は世界大会や日本選手権で出ているのと違い、全日本インカレ(日本学生対校選手権)で出ている。「全日本」とはいえ、桐生選手レベルになれば最重要の試合ではない。今年の日本選手権では4位になり、世界選手権の代表を逃している。

 たとえ偶然起きた出来事でも、そこに意味づけをし、物語が自分の中で形成されてしまうことがある。本番以外(世界大会、日本選手権)で記録を出せたということは、違う観点では本番では出せていないということになる。つまり、狙わないと記録を出せて、狙いすぎると(記録が)出ないんじゃないかという自己暗示が形成されかねないということだ。

 この自己暗示を払拭するのは桐生選手自身だろう。おそらく次の目標は、日本選手権や世界陸上で、今回のようなパフォーマンスをすることだろう。その時、さらに桐生選手に大きな飛躍がもたらされるのだと思う。

 今現在の日本記録は9秒98である。現役トップスプリンターの目標は10秒の向こうに設定し直された。そこから逆算され、今日からまさに彼らのトレーニングが開始される。そう遠くない将来、選手たちは9秒台になだれ込んでいくだろう。もはや私たちの頭の中にあった壁は取り払われた。(為末大)