サッカー・ワールドカップ(W杯)ロシア大会に臨む日本代表に、川崎フロンターレのMF大島僚太(25)が初選出された。

 直前の親善試合・ガーナ戦では代表で初のフル出場を果たし、西野朗監督が「展開力とプレーメークで外せなかった」と高評価した。川崎F同様、代表でも「チームの心臓」へと飛躍を遂げている。静岡学園高卒業後、川崎F一筋でプレーした大島の成長には、日本屈指の司令塔・中村憲剛(37)の存在が大きかった。大島も「僕自身がプロになったばかりのころは、サッカーでどう勝つか。試合でどう勝つか考えずにプレーしてきた。そういったことを一から教えていただいて。見よう見まねでやってみることから始まった。すべてを教えてもらったと感じています」と話す。

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 川崎Fは12年のシーズン途中から、風間八宏監督が就任すると中村と大島のコンビが中盤を担う回数が増えた。大島のマグネットのように足に吸い付くトラップ、相手の重心の逆を取って1歩で外す動きなど、技術の高さはだれもが認めていた。中村も大島も、体格的には大きい方ではない。風間監督の技術に特化したサッカーならではの中盤での起用だった。

 13年は負傷もありコンビを組むことは少なかったが、14年から16年の初夏まで、中村は、隣の大島に自らの経験から得た技術と思考を出し惜しみなく伝え続けてきた。「みんながうまくなったら、自分も楽ができるしチームのためになる」という考えからだ。そして大島には「うまい選手」で終わるのでなく「怖い選手」へ変貌してほしいと思い続けてきた。特に教えた部分を尋ねると、中村は「全部」と即答した。

 中村 自分は全部たたき込んだつもり。練習が終わった後もそうだし、試合が終わった後も「今、前向けた」「後ろに出せた」とか話をしました。今、相手がどうしたいかを考えろと。相手がどういうシステムでこちらを封じようとしているのか、そうすると、どこが空くのか。ボランチは最初にそれを敏感に感じなければいけないと。ボランチは一番、相手が嫌なところを突くように先導するようにしないといけない。それをプレーで見せたりとか、話しながらとかしてましたね。まだ足らないけど、相手が一番隠したい部分を引っぱがすプレーをされたらね。それが怖さにつながっていく。

 中村の戦術眼を大島はどんどん吸収していった。「うまい」で終わる選手もいる中で、大島が日本代表にまで成長した理由を「(小林)悠もそうだけど、伸びていく選手に言えることは、素直であること、耳を傾けること、話を聞いて自分のものにしていくこと」と挙げる。大島からは「何でもできるようになりたい」という貪欲な姿勢を感じていた。中村は「オレが話したいタイミングで話すのが、オレと彼の間柄。僕はこう思います、と意見も言うようにもなった。息詰まっている部分もあったけど、うまく話ができたことが今の彼につながっている。素直で向上心があったからこそ伸びたと思いますし。人の話を聞けないと、自分もアドバイスしてないし。人間力もあった」。

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 大島の飛躍で欠かせない出来事が16年に起きる。このシーズンはMFエドゥアルド・ネットが加入。チームになじむまで、大島は中村、DF谷口、MF森谷とボランチを組んでいた。当時の大島は横パスなど安全なプレーが多く、相手の急所を突く縦パスが影を潜め、プレー位置も後ろに下がりがちだった。中村は「今、前に行けただろう」と練習でも試合でも言い続けてきた。4月のある日。練習後の取材で大島のプレーの話題になった際、最後に中村が「オレにはもう、時間がない」と漏らしたことがある。当時の中村は35歳。選手寿命の現実を考えれば、隣でプレーして教える時間が限られているのは当然のことだった。初めて聞いた焦りの言葉を、今でもはっきり覚えている。

 そして5月4日のホーム・仙台戦。大島は谷口と中盤に入り、中村がトップ下で先発した。相手のプレスが激しく、中村も中盤後方に下がり、攻撃の組み立てを手助けせざるを得ない苦戦を強いられた。それでも下がり気味のプレーをする大島に、中村がしびれを切らし一喝した。「お前が前に行かなくてどうするんだ!」。センターバックのDF奈良竜樹にまで聞こえたほどのけんまくだった。大島は中村をにらみつけると、直後にペナルティーエリア内へ仕掛けて強烈な同点弾。この一戦から変化が起きた。それまでの7試合と、以降の7試合を比較すると敵陣ペナルティーエリア内でのプレー数が倍増。攻撃エリアでのプレー数も1・5倍に増えたのだ(データスタジアム調べ)。大島が壁を突き破った瞬間だった。

 中村が大島に怒ったのは、これが最後だった。中村は当時の仙台戦を「覚えてますよ。どこかでたきつけないと、そのぐらいしないと変わらないなと。あれでよかったと思うし。言い続けてきたことが実になった。そして、あれからオレを前に(トップ下)に追い出してくれたから(笑い)」。チームは大島とエドゥアルド・ネットのコンビが中盤の主軸になり、中村はトップ下が主戦場になった。そしてこの年にJリーグ史上最年長でMVPを受賞した。

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 大島は加入当時から人見知りの性格で、キャンプで中村から「風呂に行こう」との誘いを断ったのは有名なエピソードだ。中村がショックを受けトレーナー室に「みんな聞いてよ」と半べそ状態で駆け込み、そこに大島が慌てて「憲剛さん、どこですか」と飛び込んできたのもいい思い出だ。中村は「懐かしいね」と笑う。今や、大島はチームでも中盤で最も声を張り上げ味方に守備位置を指示している。「積極性と自覚も生まれて、着実にできることがどんどん増えて。彼には波がない。いきなりポーンと出てきたわけではないから。18歳からコツコツとやって、いろんなことができるようになった選手なので。どんな試合でもある程度のパフォーマンスは出せる。彼に限って、きょう、全然ダメ、というパフォーマンスはない。それは技術と経験値がなせる技。W杯では恐れる必要はないし、自分を出せばいい。そして吸収してもう1段上がっていく」。

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 大島は中村同様、決して大柄ではない体格だ。中村も「いかに相手に当たられずにボールを受け、相手を外すか」を考えながらプレーしてきた。大島も静岡学園時代に「(世界のトップには)ヨーイドンで勝てないしょ、ぶつかったら勝てないでしょ、頭を使ってプレーしなさい」と鍛えられてきた。相手が届かない位置でボールを受けるポジショニング、屈強な相手を1歩で外す動き、取られないボールの置き所…。2人には知恵と技術で体格差を克服してきた共通点がある。だからこそ、中村は世界最高峰の舞台で、大島にこう期待を寄せた。「足元の技術はあるし、(相手に)ぶつからないように考えてやってきたと思う。その発想がW杯の舞台で、彼の物差しがどれぐらい変わるか興味がある。フロンターレの選手も“僚太ができるからできる”とか”僚太ができなかったら難しい”とか、1つの指針になると思う。Jリーグにとっても彼の出来が関わってくる。彼がしっかりできれば、国内にいてもできると証明する可能性もある。それぐらいのプレーを見せてほしい」。

 静岡学園、川崎Fで成長した大島が世界最高峰の舞台でどれだけ力を発揮できるか。そしてどれだけ「怖さ」を兼ね備えるプレーを身に付けられるか。日本サッカーの未来にヒントを与えると信じている。【岩田千代巳】

 ◆岩田千代巳(いわた・ちよみ)1995年、入社。主に文化社会部で芸能、音楽を担当。11年11月、静岡支局に異動し初のスポーツの現場に。13年1月から磐田を担当。15年5月、スポーツ部に異動し主に川崎F、湘南担当。


C大阪対川崎F 川崎F・MF中村憲剛。左は大島僚太(2017年11月4日撮影)
C大阪対川崎F 川崎F・MF中村憲剛。左は大島僚太(2017年11月4日撮影)