「かかって来いよ! ガツンといわしてやるよ!」

 これはガンバ大阪を率いていた頃、サッカー日本代表の西野朗監督が発した言葉である。

 大阪のライバルであるセレッソ大阪と優勝争いを繰り広げ、リーグ初制覇を達成した05年。大阪ダービーを控えた練習後に、報道陣の前でそう言った。先輩記者が取材をして原稿にした数日後。私が取材に行った際にも、C大阪の小林伸二監督に対して過激な発言をした。

東京対G大阪 ナビスコ杯準々決勝、アウエーで東京を3対1で破ったG大阪西野朗監督は、試合終了のホイッスルを聞くとガッツポーズ(02年9月4日)
東京対G大阪 ナビスコ杯準々決勝、アウエーで東京を3対1で破ったG大阪西野朗監督は、試合終了のホイッスルを聞くとガッツポーズ(02年9月4日)

 「調子に乗っているんじゃないよ! 力関係をはっきりと見せつけてやる」

 ダービーを盛り上げたいというリップサービスが多少はあったかも知れないが、決して冗談ではなかった。西野監督の目は、真剣だった。

 18年ワールドカップ(W杯)ロシア大会が開幕する直前まで、日本代表の番記者の西野評は「ダンディーで話しやすい人」「親しみやすい監督」というものだった。

 「西野ガンバ」の黄金時代を取材した番記者とは印象が違う。当時はまばゆいばかりのオーラがあり、荒々しいまでに牙をむき出しにしていた。

Jリーグ(J1)G大阪対柏 戦況を見つめるG大阪・西野朗監督(撮影・田崎高広)=2007年5月19日、大阪・万博記念競技場
Jリーグ(J1)G大阪対柏 戦況を見つめるG大阪・西野朗監督(撮影・田崎高広)=2007年5月19日、大阪・万博記念競技場

 日本が初出場した98年W杯フランス大会で、当時の日本代表岡田武史監督が、カズを登録メンバーから外したことは有名である。思い出すのは、西野監督も驚くような采配をしたことがあったことだ。

 06年W杯ドイツ大会が開幕するシーズン当初のこと。日本代表で主将を任されていたDF宮本恒靖に、チームの基本システムである4バックでは適任でないとして、控え通告をした。大事なW杯を数カ月後に控え、宮本はG大阪で居場所を失った。その年、開幕からリーグ6戦で先発したのは1試合だけ。その後、定位置を取り戻したが、代表のキャプテンでさえ容赦しなかった。

 1次リーグで敗退した06年W杯後、日本代表監督がジーコからオシムへと代わると、その宮本は代表に招集されなくなった。代表スタッフは体調面を理由にしていた。だが、事情を聴いた西野監督は「そういう配慮は、ツネ(宮本)のためにも良くない」として、あえて真相を公にした。

ACL決勝第2戦 アデレード対G大阪 絶叫しながら、優勝カップを高々と掲げる西野朗監督
(2008年11月12日) 
ACL決勝第2戦 アデレード対G大阪 絶叫しながら、優勝カップを高々と掲げる西野朗監督 (2008年11月12日) 

 「彼のパフォーマンス、スタイルが、走力を求める(オシム監督の)チーム作りで必要ないということ。そこははっきりと言った方がいい。今の状態だとか、疲れを理由にしてはいけない」

 選手の成長のために、物事を曖昧にすることを嫌い、白黒を付けることを望んだ。

 07年にはA代表入りを果たしていた生え抜きのMF家長昭博(現川崎フロンターレ)を「素晴らしいポテンシャルを持っているが、戦術を理解していない」と控え扱いにし、翌年に大分へ手放した。08年に日本代表候補だったDF水本裕貴(現サンフレッチェ広島)を獲得しながら、半年で京都へ放出。10年には起用法に反抗的な態度を取ったFWペドロ・ジュニオール(現鹿島アントラーズ)を、シーズン中にブラジルへと帰らせたこともある。

 厳格な姿勢は、選手を震え上がらせたほどだった。

 11年限りで10年間の指揮を執ったG大阪を去ると、翌12年途中からヴィッセル神戸へ。わずか半年で神戸を解任され、14年から2シーズン在籍した名古屋グランパスでも思うような結果を残せなかった。

乾貴士(手前)に声をかける西野朗監督(2018年6月24日撮影)
乾貴士(手前)に声をかける西野朗監督(2018年6月24日撮影)

 周囲には、じょじょに牙がすり減り、威厳も薄れつつあるように映っていたのかも知れない。

 だが、2-2で引き分けた6月24日のW杯1次リーグのセネガル戦で、まだ真剣勝負の余韻を残したままインタビューに応じていた西野監督の目には、かつての鋭い眼光がよみがえっているように見えた。

 ただの「親しみやすい監督」とは違う。徹底して勝負に徹する全盛期のオーラを取り戻した西野監督が、どこまで世界を驚かせることができるか-。それを、楽しみにしている。【元サッカー担当、現ゴルフ担当=益子浩一】