神戸製鋼V7の当時を振り返った藤崎泰士さん(撮影・松本航)
神戸製鋼V7の当時を振り返った藤崎泰士さん(撮影・松本航)

1995年(平7)1月17日、午前5時46分。神戸市須磨区の自宅で、神戸製鋼ラグビー部の主務を務めていた藤崎泰士さん(57)は阪神・淡路大震災を経験した。24年前の記憶は「よく『大変だったでしょう?』と聞かれるんですが、あまりそんな覚えがないんです。みんなが助け合っていたから」と刻まれている。

震災2日前の1月15日に行われた日本選手権決勝(東京・国立競技場)では大東大を102-14で下し、7連覇を達成。平尾誠二らメンバーに神戸へ戻る新幹線の切符を手渡し、祝日だった翌16日の月曜日は自由行動となっていた。

それぞれが優勝の余韻に浸り、日常に戻るはずだった火曜日の朝。神戸の中心地「三宮」から地下鉄で約20分ほど西に進んだ妙法寺駅近くに、藤崎さんの自宅はあった。比較的被害は少なく、揺れが収まるのを待つと「会社に行かなアカンな」と外を眺めた。

いつものように南方の海へと目をやり、そのまま東へ視線を向けた時だった。

「本社があった神戸の中心地から、煙が上がっていたんです。それでも出勤しようと思って家を出たら、電車も止まっている。それで事の大きさを実感しました」

行き先は会社から、両親のいる西宮市内の実家に変わった。有馬を経由しながら山を抜け、数時間かけて車で全壊の実家にたどり着いた。「何とか大丈夫か…」。無事を確認して、須磨に戻ると1日が終わった。

一方、神戸市東灘区には10階建ての社員寮があった。その1階部分はつぶれ、隙間をこじ開けて外に出たラグビー部員たちは、がれき処理、見回りなどで地域住民の力になった。練習場は液状化現象を起こし、本社も倒壊。藤崎さんは急きょ神戸市中央区の対策本部で日本各地から届く支援物資を仕分け、運ぶ作業にあたることとなった。

「本当にたくさんのものをいただきました。食べ物はもちろん、バイク、自転車、仮設トイレまで。それがトラックで運ばれてくるのを、泊まり込んで何日間か手伝いました。『助けられている。すごいな』と思っていましたよ、本当に」

その作業が落ち着くと、職場は加古川市へ移った。

「会社自体が大変やったから『ラグビー部をどうする』というのを、考えている余裕はなかった。ラグビーの仕事をいつからしたのか、覚えていないんです」

神戸製鋼所は高炉(溶鉱炉)の損壊で、企業自体の存続も危ぶまれた。そんな状況下とは思えない記憶が、藤崎さんにはある。

「会社にいて、『こんな時にラグビーなんかやっている場合か』っていう雰囲気はなかったんですよね」

所属する資材部の部長からは「ラグビー部を動かすには、どないしたらええんや? やりやすくなることがあったら、言うてみい」と尋ねられた。スタッフの仕事場が別々で、マネジャーと連絡が取れないことを伝えると、そのマネジャーは異動となり、藤崎さんと同じ加古川にやってきた。

「いろいろ考えて、やってくれた恩がありました」

社外でも神戸製鋼に対する優しさを感じた。9月に練習場が復旧するまでは週1回程度、西区にある神戸高専のグラウンドを借りた。北区の「しあわせの村」にある芝生で、体を動かしたこともあった。ゴールデンウイークには「神鋼さん、困っているでしょうから、何日間かうちに来ませんか」とヤマハ発動機の部長から声をかけられ、静岡で前人未到の日本選手権8連覇に向けた練習を積んだ。

翌96年1月28日、全国社会人大会の決勝トーナメント1回戦でサントリーと17-17の引き分け。トライ数で上回った相手の準決勝進出を許し、神戸製鋼の連覇は「7」で止まった。

「地震があった翌シーズンやから『負けられへん』とも思っていた。あっけなかったね。今思ったら、練習不足かもしれんし、油断かもしれんし、それとも違う何かがあったかもしれん。でも『地震のせいで負けた』とは、みんな思ってへんかったと思う。少なくとも、自ら言っている人間はいなかったね」

当時、ラグビー界に根強く残っていたのはアマチュアリズム。現在ほど地域と企業チームの接点は多くなかった。「誰のために戦うのか」と考えれば、「会社や家族のため」だった。

震災を通じて受けたのは、直接的なエールだった。

「近所の食べ物屋さんとか、取引先もそうやし、そういうところで神戸製鋼に対する応援っていうのはよく感じた。いろいろな人と接して、顔が見えている人から『頑張れよ』って言ってもらえることが多かったよね」

2018年12月15日、神戸製鋼は18大会ぶり10度目の優勝で、平成最後の日本選手権を締めくくった。西の名門は今季の主役となり、関西ラグビー界全体が息を吹き返しつつある。震災から24年となったこの日、NO8前川鐘平共同主将(30)は「1・17」の重みを説いた。

「今日という日は大切な日。誰のためにラグビーをするのか。そこをぶれずにやっていきたい。仲間のため、会社のため、ファンのため、ラグビー界のため」

春には新元号となり、ますます震災の記憶は過去のものとなるだろう。それでも過去、現在、未来をつなぐ使命を持ち、神戸製鋼は復興の象徴であり続ける。【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大体大とラグビー部に所属。13年10月に大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月から西日本の五輪競技を担当し、ラグビーやフィギュアスケートを中心に取材。

神戸市内での練習前に黙とうした神戸製鋼の選手、スタッフたち(撮影・松本航)
神戸市内での練習前に黙とうした神戸製鋼の選手、スタッフたち(撮影・松本航)