スケート靴は捨てるつもりだった。

18歳、高校3年だった渡部絵美(58)は78年の全日本選手権で最多6連覇を達成。上智大進学も決まり、キャンパスライフを満喫しようと思っていた。通学して10日余りたったころ、複数の五輪金メダリストを育てたイタリア人のカルロ・ファッシから電話が来た。

「もう1年だけやろう」と、上智大には休学届を提出。米デンバーにあったファッシの自宅の屋根裏に居候した。きめ細かくも、常にポジティブな指導法は肌に合う。「気づきがあった。今まではやらされていた練習だったが、自分からやりたいとなった。スケートの面白さが分かってきた」。


80年2月、レークプラシッド五輪本番前に笑顔を見せる渡部絵美
80年2月、レークプラシッド五輪本番前に笑顔を見せる渡部絵美

70年代後半に入ると、女子も3回転時代が到来。渡部もファッシの指導もあり、サルコー、トーループと2つの3回転ジャンプを習得した。12歳から武器としてきたダブルアクセルの世界的評価も高まる。踏み切り、回転、着地と教科書通りの正確なジャンプ。国際スケート連盟(ISU)のマニュアルにも掲載された。結果も出る。79年世界選手権(オーストリア)で銅メダルを獲得。日本人としては77年世界選手権銅の佐野稔に続く快挙だった。

憧れのジャネット・リンのように、いつも笑顔の演技。「和製リン」「絵美スマイル」と呼ばれ、一躍時の人になる。80年生まれの女の子についた名前で最も多いのは「絵美」。ファンレターは段ボールで何箱も届く。人気者にプライバシーはない。逃げるように9歳から拠点の米国に戻った。携帯電話はない時代。家族、友人と離れ「孤独で寂しい」ことも多かったが、一方で当時は「米国で練習している時が一番平和」な日々でもあった。

翌80年レークプラシッド五輪では、日本人初のメダルが期待された。だが、ショートは2回転の着地ミスで4位と出遅れる。フリーは3回転ジャンプも含め、ほぼノーミスだったが6位に陥落。当時の日本勢の地位は欧米勢に比べて低い。今のように個々の技が細かく得点化されておらず、審判の主観に頼る部分も多かった。納得はできなかったが、気持ちを切り替え、1カ月後の世界選手権(ドイツ)では「人生で一番の演技ができた」。4位に終わったものの「見た人が見れば分かる。もう悔いはない」と、スケート人生にピリオドを打つ決断をした。


80年6月23日、引退会見で涙をぬぐう渡部絵美
80年6月23日、引退会見で涙をぬぐう渡部絵美

9歳から引退するまで拠点が米国だったことで、国内では外様扱いされ、常に逆風にさらされていたという。「“絵美スマイル”と言われたが、“絵美苦しい”が多かった。スケート人生がなくても良かったと思うくらい、つらいことが多かった」と、栄光の裏に隠された苦悩を振り返った。80年6月に引退会見。入れ替わるように天才スケーターが出現する。半年後の同年12月の全日本選手権。11歳、小学5年生の少女が3位に入る。日本フィギュアの歴史に革命を起こす伊藤みどりだった。(敬称略=つづく)(2017年11月22日紙面から。年齢は掲載当時)