2008年北京、12年ロンドンの両五輪で体操女子のエースとして活躍した鶴見虹子(24)は、ことし3月に日体大を卒業し、新たな1歩を踏み出している。自分の体操クラブを創設し、五輪選手を育てることが夢だ。その夢をかなえるため、今は小中学生に体操を教えながら一から指導を勉強している。【取材・構成=吉松忠弘】

●NBH入社、小中学生を指導

 身長140センチの小さな体に、甲高い声は、現役の時と変わらなかった。「めっちゃ、久しぶりじゃないですか」。鶴見の第一声は、自分の夢へ進む基盤を見つけた喜びに満ちていた。日体大の同期、若松翠(みどり)の紹介で16年4月、フィットネスクラブなどを運営するNBH(本社・東京)に入社した。

 入社から3カ月後の7月から体操教室を開校。1日2時間の週4日、2歳から小3までを指導している。「やっと慣れてきた。広くないので、どうすれば(効率的に)教えられるかを学んで。理学療法士さんとかも話しながら、少人数で丁寧に教えることを重視している」。

 1クラスは5~7人。それに先生が2~3人つくというぜいたくさだ。加えて、神奈川・鎌倉市の徳洲会女子体操部でも小2から中3までを指導している。

 当初は大学を卒業したら、米国に指導の勉強に行くはずだった。「自分が一からやらないと、自分が思っている選手がつくれない。もともとあるクラブに就職しても、思い通りにやるのは難しい。まずは米国で勉強しようと思った」。それだけに、米国行きの希望はまだ捨てていない。

●田中理恵との出会いが転機に

 鶴見は幼少期から朝日生命でめきめきと力を伸ばし、06年に14歳にして全日本選手権個人総合を制した。その後、史上初の6連覇を達成するなど、日本女子を引っ張ってきた。しかし、日体大に入学するまで「体操を1度も楽しいと思ったことがなかった。結果を出すことだけが目的だった」。転機は18歳だった10年の日本代表合宿。初めて代表に入った当時日体大所属の田中理恵と一緒になった。田中は「大学に行ったら、体操が楽しくなる、好きになる」と話したという。

 田中も和歌山北高時代、左足の遊離軟骨の影響で、体操が楽しくなかった。しかし、日体大で見事に花を咲かせた。鶴見もその気持ちをくみ取り「体操を好きにならずに終わるのは嫌だ。だったら試してみよう」と、11年11月に朝日生命を退部し、12年4月に日体大に入学した。

 それまで高校は通信制。学校にはほとんど通わず、体操漬けの生活だった。それが「大学に入ったら同期も仲間もいる。友達がいないのは絶対につらい。違った人とも会えて、世界観が広がった」。初めて寮生活も経験。練習はきつかったが、それも仲間がいたから耐えられた。今も体操教室で、鶴見を支えているのは、日体大で同期だった2人だ。

●難度偏重の体操に警鐘鳴らす

 最終的には「自分のクラブをつくりたい」。そこには「体操の日本女子を変えたい」という強い思いがある。体操は技の難度を評価するD得点(演技価値点)と、体線などの美しさを評価するE得点(実施点)の合計点で争われる。「表現力とかつま先がどれだけ伸びているかなど、美しさとか、まだ全然足りない」。E得点を重視し、現在の難度偏重に警鐘を鳴らす。

 体操男子と言えば、世界王者の内村航平の「美しい体操」が有名だ。それでも「女子とは違う。内村君は美しいですが、女子で言えば、もうちょっとつま先伸ばしてと思う」。そう話す鶴見の夢は「五輪選手を育てたい」。さすがに20年東京五輪には間に合わないが、「サポートか、解説をやりたい」。そのために公認審判員の資格も取った。

 140センチの小さな体には「やることがたくさんあって」と、大きな夢が詰まっている。(敬称略)

 ◆鶴見虹子(つるみ・こうこ)1992年(平4)9月28日、埼玉県生まれ。5歳で姉亜子さんの影響で体操を始め、個人総合で全日本6度、NHK杯4度の優勝。08年北京五輪では団体5位入賞に貢献し、09年世界選手権では個人総合銅メダル、段違い平行棒で銀メダルを獲得した。12年ロンドン五輪にも出場したが、左右のアキレスけん断裂などで15年11月の全日本団体を最後に引退した。