バレーボール女子日本代表で64年東京オリンピック(五輪)金メダリストの井戸川絹子(いどがわ・きぬこ、旧姓谷田=たにだ)さんが、脳出血のため、4日に大阪府内で亡くなっていたことが6日、分かった。81歳。葬儀は家族葬で終えられた。関係者によると、3日までは普段と変わらない様子だったといい、4日朝に倒れているところを家族が見つけた。

「東洋の魔女」をけん引する不動のエースアタッカーだった。大阪府出身で四天王寺高から日紡貝塚へ入社。東京五輪は当時31歳で主将の河西昌枝さん、最年少20歳の磯辺サタさん(ともに故人)らを支える25歳の中堅選手として、金メダルをつかんだソ連戦などに出場した。テレビ視聴率66・8%を記録した歴史的一戦を「『勝てるか分からん』とは思っていました。でも『負ける』と考えたことは、一切ありませんでした」とのちに振り返った。

五輪後に現役引退し、夫の実家がある宮崎や、山口で暮らした。50代までママさんバレーに打ち込み、約20年前に戻った大阪ではバレーボール教室も行った。16年には坂で傾いた自転車の下敷きとなり、肋骨(ろっこつ)にヒビが入ったというが「それで手術したなんか言えない。恥ずかしい。膝が悪くてつえを突いて歩いた時も、表では絶対にしない」と口にしていた。

62年世界選手権優勝、東京五輪金メダル。現役時代から「レギュラーを落とされたら、絶対に嫌やった。もし『落とす』と言われても『嫌』としがみついていた」と強い意志を持ち、日本バレー界の礎を築いた。

◆井戸川絹子(いどがわ・きぬこ)旧姓・谷田。1939年(昭14)9月19日、大阪府生まれ。池田市の北豊島中でテニス部に入部したが、素振りばかりの1週間で退部。バレーボール部に入部した。四天王寺高では小島孝治監督(故人)から「バスケットゴールの板を触れば、練習に入れてやる」と命じられ、ジャンプ力をつけた。日紡貝塚に入社し、日本代表としては62年世界選手権優勝、64年東京五輪金メダルにレフトとして貢献。168センチ。