第100回を迎える全国高校ラグビー大会が27日、大阪・花園ラグビー場で開幕する。1918年(大7)に豊中運動場(大阪)で幕を開け、大正天皇の崩御や太平洋戦争による中止、開催地の変更も重ね、その歴史を刻んできた。日刊スポーツでは連載「花園100回の軌跡」を、5日間掲載する。

2つの視点で見る花園100回大会/ダブル連載一覧

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かつて黒いジャージーと、無類の強さから「神奈川のオールブラックス」と呼ばれ、全国にその名をとどろかせた公立校があった。相模台工(現・神奈川総産)の雄姿は、今もラグビーファンの脳裏に焼き付いている。

黒のジャージーとパンツの15人は、聖地・花園で偉業を成し遂げた。強力FW陣を武器に1993年度の第73回大会と94年度の第74回大会で、全国高校大会2連覇を達成した。

圧倒的な人気を誇ったTBS系のドラマ「スクール☆ウォーズ」に登場し、相手校として強烈な強さを誇ったライバル校「相模一高」は、相模台工が由来と言われている。それほどに強かった。

しかし、いつの間にか、その存在は過去のものとなってしまった。学校再編で閉校し、はや15年がたつ。当時のコーチや選手から話を聞いた。

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桐蔭学園、慶応、法政二、東海大相模…。ライバルがひしめく神奈川では、県予選を突破し全国大会に出場するだけでも大変なはずだが、花園を2連覇した時にコーチを務めた大嶋将英さん(81)は「勝って当たり前の雰囲気がありました」という。

その真意を尋ねると、「花園で優勝するため県内で負けてられないという、常連校の意地です」ときっぱり言った。監督を務めていた名将・松沢友久さん(83)との思い出も、なつかしそうに振り返った。

大嶋さんは、山梨・甲府工を卒業し、社会人の東芝に入社した。22歳の時に浜川崎工場のラグビー部設立に尽力した。選手をしながら、近隣の高校に足を運んで有望選手のスカウトもしていた。

相模台工も、よく訪れる学校の1つだった。当時既に監督をしていた松沢さんと定期的に顔を合わせるようになった。「(松沢さんとは)同じ山梨出身ということでウマが合ってね。台工から毎年、2~3人が浜川崎のラグビー部に入ってくれたりとコーチをする前からつながりは深かったね」。

大嶋さんが40代後半に差し掛かったころ、相模台工のコーチに就任した。監督の松沢さんの口癖は「ラグビーの基本はFW」「強いFWを作らないと、全国では勝てない」。現役時代にFWの第1列でならした大嶋さんがスクラムやタックルを基礎から教え、チーム力の底上げにつなげた。

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当時はまだスパルタ指導も珍しくなかった。どんな選手でも必死に努力すれば輝くというのが、松沢監督の指導理念だった。

大嶋さんは「遠征先で試合に負けた時、グラウンドにタイヤが並んでいるのを見た松沢さんが『腰が強いのはこれか』と。タイヤにひもをつけて、選手たちに引かせていました」。

悲願の花園初優勝を手にするため、他校を見習って強化に励んだ。

1963年、開校後まもなく、ラグビー部が発足した。その2年後には全国高校大会の県予選などにも出場できるようになり、松沢さんが監督に就任すると徐々に県内でも頭角を現していった。

県予選を勝ち抜き、73年度の第53回大会で花園の舞台に初めて立った。約10年後、84年度の第64回大会で秋田工と死闘を演じて準優勝する。

続く85年度の第65回大会は4強、86年度の第66回大会は8強、87年度の第67回大会はまたも秋田工に敗れて準優勝に終わった。

全国の頂点まで、あと1歩のところまではきていたが、なかなか王座をつかめなかった。

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ようやく、93年度の第73回大会で悲願の頂点に立った。現在、トップリーグの三菱重工相模原ダイナボアーズで事務局統括を務める浦田昇平さん(45)は、当時FBとして活躍した。

決勝では、東農大二(群馬)を19-6で破った。「花園出場のため入学を決めたけど、まさか優勝できるなんて。夢がかないました」。今も当時を思い起こすと自然と声が弾む。

「台工は練習時間も量もとても多かったです」と浦田さん。ただ、監督の松沢さんの指導は時代の先をいく先進的なものだったと実感している。「オフロードパス(タックルされながらのパス)や試合に向けた気持ちの整え方を学ぶなど、今では当たり前といった取り組みが、練習の中に、随所に含まれていました」と振り返る。

花園出場16回、そのうち日本一と準優勝をそれぞれ2回成し遂げた。神奈川県予選を勝ち抜き全国の舞台に出場した公立校は、横浜商との2校だけ。また、花園連覇した学校は、歴代でわずか8校にすぎない。

OBの中には03年W杯オーストラリア大会の日本代表に選出されたCTB難波英樹さん(トヨタ自動車)など日本を代表するようなトッププレーヤーも輩出した。

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そんな黄金期は、とつぜん途切れてしまう。2連覇の翌年度、1995年度の75回大会に出場したのを最後に、全国の舞台から姿を消した。

「打倒、相模台工」と息巻く県内のライバルが一気にレベルを上げ、なかなか勝てなくなった。

05年には、学校統合で閉校を余儀なくされ、その名も消えた。

大嶋さんは「名前はどうしても残してほしかった…。1つの時代が終わった気がしました」と寂しげに語った。

“台工魂”を受け継ぐ神奈川総産は、昨年度の花園予選となる神奈川県大会に、6年ぶりに単独チームで出場した。

週末の練習には相模台工のOBが駆け付け、競技に打ち込む部員たちを支えている。

相模原市内では他に、ラグビー教室を開校するなど活発な動きが続く。国内最高峰のトップリーグでは、三菱重工相模原が活動する。相模台工はなくなっても、ラグビーを通じた街おこしは、衰えることはない。

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27日開幕の100回記念大会には、神奈川から桐蔭学園と東海大相模が出場する。桐蔭学園は県勢2校目の連覇を目指す。

大嶋さんは「県内で切磋琢磨(せっさたくま)する両校のおかげで、神奈川が全国の強豪になっている」。浦田さんは「県代表として堂々とした戦いをしてほしい」と期待に胸を膨らませている。【平山連】