執念の日本一だった。玄暉は表彰式で金メダルを首に下げると、涙しながら天を見上げた。数秒間、目を閉じて大好きな父へ初優勝を報告した。

「恩返しは社会人になったらと思ったら何もできずに亡くなってしまった…。何としても優勝という強い気持ちで戦った」と声を震わせた。 竪山との決勝では、飛びつくように前へ前へ-。先に内股で技ありを奪ったが、追いつかれて一進一退の攻防に。自身に「逃げるな」と言い聞かせ、延長に入っても足を止めずに父の教えである「強い気持ち」で戦った。開始10分14秒。最後は“秘策”の肩車で技ありを奪い、3試合連続一本勝ちで勝負を決めた。 大会2週間前の稽古で左膝を負傷。父がバルセロナ五輪の現地練習で痛めた箇所と同じだった。しかし、24年パリ五輪を見据えて「絶対に出る」と覚悟を決め、痛みに耐えながら調整や減量に励んだ。そんな中、父が53歳の若さで旅立った。悲しみのどん底に突き落とされたが、「試合に集中しろ!」と父に言われたような気がして、通夜や告別式の日も休まずに体を動かした。ひつぎには「結果を出して恩返しします」と記した手紙を入れ、将来の五輪金メダルを誓った。 左膝のけが、父の死、世界選手権代表選考…。この1カ月はさまざまなことが重なり、苦悩の日々が続いただけに「全てにおいてこみあげてくるものがあった」と感極まった。これまで試合の合間には父から必ず連絡があったが、その声はもう聞けない。現実と向き合い「今まで以上に覚悟が強まった」と、自ら気持ちを奮い立たせた。父が過去7度制した同大会で、初の親子優勝を果たした。 世界選手権代表にも初選出された。今後、世界と戦うためにも、父の代名詞だった背負い投げを習得する考えも示し、さらなる成長を誓う。「平成の三四郎」のDNAを継ぐ大器は言った。「1つ1つ結果を出して、その先にパリ五輪がある。父の思いも背負って、少しずつ恩返しできるように精進したい」。3年後の大舞台に照準を定めた22歳の柔道家は、福岡の地で新たなスタートを切った。【峯岸佑樹】

◆古賀玄暉(こが・げんき)1998年(平10)12月19日、川崎市生まれ。3歳で柔道を始める。愛知・大成高-日体大-旭化成。15年世界カデ(15~17歳)選手権優勝。18年全日本ジュニア選手権、世界ジュニア選手権優勝。得意技は内股、大腰。右組み。家族は母、兄で18年学生体重別選手権73キロ級王者の颯人さん、妹で19年アジアジュニア選手権57キロ級覇者のひより。170センチ。血液型B。