第59代横綱隆の里の鳴戸親方(本名・高谷俊英=たかや・としひで)が7日午前9時51分、急性呼吸不全のため、福岡市内の病院で死去した。59歳。大相撲九州場所(13日初日、福岡国際センター)で、弟子の関脇稀勢の里(25)が大関とりに挑戦する直前のことだった。また10月下旬から週刊誌上で弟子への暴行疑惑が浮上し、日本相撲協会から調査を受けている最中でもあった。自宅は千葉県松戸市八ケ崎8の14の7。葬儀・告別式は未定。

 九州場所を6日後に控え、鳴戸親方が逝った。6日夕方、39度の発熱があり、おかみさんと幕内若の里が同乗した車で病院へ向かい入院。ぜんそくの治療を受けたが、夜に西岩親方(元前頭隆の鶴)が駆けつけた時には、意識がなかったという。一夜明けても状態は好転せず、永眠した。鳴戸部屋では師匠不在の中、弟子たちが本場所へ向けて汗を流していた。

 現役時代から、糖尿病と闘った。角界関係者によると、10年以上前から心臓を患い、発作時に服用する薬を常備していたという。さらに睡眠時無呼吸症候群も併発。日本相撲協会の放駒理事長(元大関魁傑)によると、最後は肺炎も起こしていた。埼玉在住の主治医は「両足に蜂窩織炎(ほうかしきえん)があり、40度の熱を出すことがあった」と証言。現役時代は150キロ前後だった体重が30キロ以上も増えた影響もあった。

 週刊誌による暴行疑惑報道も追い打ちをかけた。弟子を角材でたたいたなどと暴力指導があったと報じられた。日本相撲協会からは数回、事情聴取を受けた。今日8日には臨時理事会が開かれ、処分が検討される予定だった。協会関係者は「ストレスもあったのではないか」と心労を思いやった。

 青森県出身。高1の68年6月、横綱初代若乃花の二子山親方にスカウトされた。だが、十両目前の19歳の時、糖尿病を患った。体重を増やそうと暴食したことが原因だった。その後は栄養学を学び、節制しながら、稽古を重ねた。30歳9カ月で横綱に昇進。初土俵から所要91場所は史上2番目のスロー出世で、耐えしのぶ姿は、当時のNHK連続テレビ小説になぞらえ「おしん横綱」と呼ばれた。

 89年二子山部屋から独立し、千葉県松戸市に鳴戸部屋を興した。

 現役時代の経験を生かし、ちゃんこには徹底的にこだわり「親方はちゃんこ番」という著書も出した。「心臓から汗をかけ」とハッパをかける猛稽古は有名。「違う部屋の力士に情が移るから」と出稽古を禁じ、中卒たたき上げの力士育成にこだわった。

 育てた関取は若の里、稀勢の里ら7人。「部屋にはよく、『稀勢の里を早く大関に育ててくれないと、相撲ファンをやめるぞ』という電話がくるんだ」と話し、愛弟子を出世させることに使命を感じていた。

 この日午後6時から、部屋主催の「お別れの会」が開かれた。思い出を聞かれた稀勢の里は「そうっすね…」と言ったきり、言葉が出ない。涙がこぼれた。「今まで指導してもらったことを思い出し、恩返しできるように頑張りたい」としぼり出すように話した。

 現役親方の死去は、06年6月に亡くなった二十山親方(元大関北天佑)以来。稀勢の里の大関とりが懸かった場所を直前にして、協会の内外に走った衝撃は大きい。鳴戸親方の遺体を乗せた車は午後9時15分、福岡から東京へ向かった。

 ◆鳴戸俊英(なると・としひで)元横綱隆の里。本名は高谷俊英(たかや・としひで)。1952年(昭27)9月29日、青森県浪岡町(現青森市)生まれ。68年6月に二子山部屋に入門し、同年名古屋場所初土俵。74年九州場所新十両、75年夏場所新入幕。82年初場所後に当時最スローの82場所で大関に昇進した。同年秋場所で全勝で初優勝。83年名古屋場所の2度目の優勝で、第59代横綱に昇進した。直後の秋場所では1場所15日制となって以降、新横綱史上初の全勝優勝を達成。86年初場所で引退。89年2月に二子山部屋から独立して部屋を創設。幕内通算464勝313敗80休。優勝4回(全勝2回)、殊勲賞2回、敢闘賞5回、金星2個。千代の富士(現九重親方)に強く、幕内対戦は8連勝を含む16勝12敗。得意は右四つ、つり、寄り。家族は夫人と1男1女。現役時代は182センチ、159キロ。血液型O。

 ◆急性呼吸不全

 呼吸不全とは、空気中の酸素を取り込み、体内の二酸化炭素を排出する呼吸機能が障害にあった状態のこと。血液中や臓器へ十分な酸素が届かなくなる。急性と慢性に分類され、症状が1カ月以内に急に起こった場合が「急性」、1カ月以上続く状態が「慢性」とされている。肺炎や敗血症、ショックや熱傷などさまざまな疾患(病気)が原因で起こる。